廃線跡からのメッセージ〜旧国鉄幸袋線〜

Blog 筑豊見聞録

 廃線跡、人々は気になってしまうという人も少なくない。ここでは飯塚市の市街地から少し外れたところを沿線としていた旧国鉄幸袋線を取り上げてみましょう。今は何気なく走る道路、そこにはどんなメッセージがあるのでしょうか。

西日本新聞筑豊版(8月31日付け朝刊)

幸袋線は、国鉄が全国約2万㌔の路線の中から淘汰を進めた赤字路線で最初に廃止された。

1969年2月7日に最後の列車が走った。線路跡は今、地域に欠かせない生活道路だ。

沿線では、日鉄鉱業二瀬鉱業所が8年1月まで操業し、現在の飯塚市と嘉麻市にまたがっていた。

旧鎮西村の潤野鉱そばで育った郷土史家の梅田一正さん(70)=飯塚市=は「幸袋線はもともと石炭輸送のためにつくられ、生活や移動の足としての存在感は薄かった。炭鉱の閉山とともに役目を終えた」と指摘する。

筑豊興業鉄道が若松直方間で走り始めた3年後の1894(明治7)年2月、小竹幸袋間が開業。8年には幸袋から潤野(のちに二瀬)へ、途中の分岐点から高雄二鉱 (旧二瀬町)に近い伊岐須へ延伸。1909年には貨物支線が潤野から中央鉱(旧穂波町)があった枝国へ伸び、さらにその先の小正炭鉱まで線路は達した。

大阪の豪商広岡浅子が開坑した潤野鉱を官営製鉄所(のち八幡製鉄所、現日本製鉄九州製鉄所)が製鉄に必要なコークス製造用の原料炭調達のため、1899年に買収。1900年に高雄一鉱 (旧幸袋町)と高雄二鉱が傘下に入った。

大正から昭和初期にかけて中央鉱や稲築鉱 (旧稲築町)を加えた5鉱から年間100万超を出炭。

筑豊の三井田川、貝島大之浦や三井三池(大牟田市)、北炭夕張 (北海道)と並ぶ日本炭鉱に数えられた。中でも、中央鉱には、三井川や三菱方城と並んで「筑豊三傑」とされた大規模な設坑があった。11年に完成。 鎮西村誌は「直径5.5M、深さ345M」「筑豊名物の一つ」と書く。

「日鉄二瀬六十年史」によると、出炭のピークは20年の約133万9千トン。梅田さんは「時代によるが、八幡の製鉄所に供給された石炭の7割ほどが二瀬からだった。地元住民として『国の発展を支えた』と、誇りを持ちたい」と話す。

炭鉱が段階的に閉鎖されて線路が削られ廃止時には小竹幸袋間の貨客線7.6kmと幸袋〜伊岐須間の貨物支線2.5kmが残っていた。

日鉄二瀬の本部や中央鉱があった一帯今、イオン穂波ショッピングセンターになり、家族連れらでにぎわっている。

石炭産業の発展とともに網の目のように広がった筑豊の鉄道路線は、誕生のきっかけも、現在の姿もさまざまだ。

筑豊本線の一部や貨物支線として生まれ廃線で道路となった路線もあれば、石炭王が建設を手掛け、JR線や第三セクター鉄道として今も人を運び続ける路線もある。全てに共通する「運炭線」としての来し方をたどり、往時の姿をしのぶ。(安部裕視)

西日本新聞筑豊版(2021年8月31日付け朝刊より)

それではもう少しこの幸袋線の沿線について、掘り下げて見てみたい。

近代化の先駆け、目尾炭坑

筑豊炭田遺跡群(国重要文化財)の一角となっている目尾炭鉱跡については、下記のリンク先をご参照ください。

いまさら聞けない!? 筑豊炭田遺跡群 国指定史跡へのワケ
平成30年に指定となったものの、その具体的な内容や、国指定史跡としての価値を知りたいけど、どれを参考にしたらいいかわからない。あるいは、「え、そうだった⁉︎」とか、全く知らなかった。そんな声が聞こえてきそうな筑豊炭田遺跡群、この稿は少しでも理解を深めてもらうため、そのポイントをまとめてみました。

「鉄は国家なり」を支えた日鉄二瀬炭坑

鉄鋼の生産には膨大な熱エネルギーを必要とする。当時の技術では鉄1トンを生産するには石炭6トンを要したとされる。

このため官営製鉄所は原料炭を確保するため炭鉱を直営する方針となった。

この方針に基づいて、安川敬一郎、松本潜、伊藤伝右衛門、中野徳次郎らが開発操業していた当時の嘉穂郡大谷村、二瀬村、鎮西村の諸炭鉱を買収、官制による「製鉄所二瀬出張所」を置き、高雄一坑、同二坑、中央坑、潤野坑などの坑所を設置、1910年(明治四三)には稲築村にも稲築坑を開いた。

開発は順調に進み、1907年(明治四〇)には産炭量約22万トンを達成。1910年(明治四三)には三井田川、三菱方城とともに筑豊の三大竪坑といわれた中央坑の竪坑を完成。

地域唯一の官営炭鉱としての誇りのもとに、生産技術や労務管理面でも筑豊全山のリーダー的役割を果たし続けた。

ちなみに現在も毎年開催されている全国都市対抗野球、この大会の出場常連チームを抱えたのは官営炭坑であり、決勝戦に二度駒を進め「福岡県二瀬町」の名を全国に知らしめた。

1934年(昭和九)に製鉄所は民営に移管されて日本製鉄㈱(現在の新日本製鉄㈱)となり、1939年(昭和一四)に至って鉱山部門が独立、日鉄鉱業㈱の発足となった。

戦後も中央・潤野・高雄一・二坑・稲築坑の五坑による原料炭主体の生産を続け、昭和三十年代まで年産40万㌧程度を維持した。

しかし、石炭産業が傾陽化し、エネルギー革命の中で坑内諸条件や生産設備の老朽化が進み、1963年(昭和三六)に潤野坑を閉山、翌々年には最後の中央・高雄一・二坑を閉山。最後に残っていた高雄炭鉱も1966年(昭和四一)に閉山、官営製鉄所二瀬出張所設置以来70年にわたる歴史の幕を閉じた。

これら炭坑跡地は、日鉄二瀬炭坑がイオン穂波ショッピングセンター、高雄二坑が九州工業大学情報工学部となっている。

幸袋線の今

西日本新聞筑豊版(9月1日付け朝刊より)

一昔前に蒸気機関車が人々の生活に影響を与えたように、近年では自動車が私たちの生活を変え、豊かな生活をもたらしている。

そんな変化、文化的向上は上の記事の写真にも象徴されているように感じられる。

ありし日の日鉄二瀬炭坑の正門
イオン穂波ショッピングセンター付近にひっそりと残る日鉄二瀬炭坑正門跡

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