世界で最もわかりやすい神楽の話 豊前岩戸神楽を大内田神楽(赤村)から紐解く

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岩戸神楽手力男(タジカラオ)の舞〜大内田神楽(赤村)〜

神楽と聞かれてもイメージできない人も多いかもしれません。実は日本全国にあるたくさんの神楽、それはそれぞれにさまざまなストーリーに満ちています。そこにはどこかで聞いたような話もあれば、神話や言い伝えによるものもあります。古来から伝わってきた神楽、そもそもそれはどんなものなのでしょうか?

ここでは赤村の大内田神楽(国重要無形民俗文化財、豊前岩戸神楽のひとつ)を詳しく紐解きながら、神楽の舞、祝詞や雅樂などに秘められた核心にクローズアップしていきましょう。

赤幡神楽(築上町)や寒田神楽(豊前市)、春日神社岩戸神楽(田川市)など、一連の豊前岩戸神楽を鑑賞の際には、是非とも参考にしてもらいたい内容です。

神楽って、なんだろう!?

「神楽」の語源については、いくつか諸説があります。

その主なものとして、「神倉」「神座」(ともに「かみくら」と読む)があり、神様のおはします場所、神の宿る場所という意味を指しています。この言葉が次第に転じて「神楽」とされるようになったようです。

 神様を人里にお招きして、祈りを奉げるために舞う。このために奉納される歌舞が神楽、「神懸かりの相」で歌い舞う「神遊び」とも言われます。

日本の信仰は、古くは縄文時代までさかのぼり、自然崇拝や呪術などがあったようです。山や樹木、巨石などの自然、太陽や月などの事物に神が宿り、その神を崇拝することが知られています。自然が乱れることなく、安泰で暮らすことを祈るため神様に願いを奉納する。これが神楽の原型で、その中に太鼓や笛などの奏楽が織り交ぜられてきました。

平安時代になると神楽は、宮中で行われる年中行事のひとつとなりました。これを「御神楽」といいますが、その演目の中に取り入れられたのが日本の神話です。ヤマトタケルやヤマタノオロチなど日本誕生にまつわる神話のストーリーを演じ、その功徳に宮中の安泰、吉兆を祈願するのが「御神楽」です。

この「御神楽」を見習う形で、日本各地の郷社や氏神様を崇拝する地域にも広がりました。これを「里神楽」といい、大内田神楽はこの「里神楽」にあたります。

民間に広まった神楽は、日本全国にありその形もバラエティ豊かです。お面をかぶり神々や鬼を演出したり、山伏の修行の影響を受けた湯立や護摩、ところによっては獅子舞を神楽と呼ぶ地域もあります。

多様な様式がある神楽ですが、これを演じ奉納する人々の思いは同じで、無病息災や厄払い、地域での平穏な暮らしや豊作を神様に祈願するための儀式、祭典が神楽と言えます。

大内田神楽の特徴

大内田神楽の案内板(赤村・大内田地区にて)

そんな神楽でも、赤村に伝わる大内田神楽はどんな特徴があるのでしょうか。

赤村の大内田地区、その郷社に大祖神社があります。もともとは戸城山の山頂にあったということですが、ここに城を築くことになった延元三(1337)年、麓に社を移したと記録にはあります。それから数百年の間、大内田地区の氏神様として崇められております。大内田神楽は、この大祖神社に奉納されている神楽です。

神楽の始まりは、江戸時代のはじめ頃の明暦元(1655)年です。今から三百年以上前、当時の大内田村では農耕用の牛馬に疫病が流行りました。これに困った村人一同が神社に願をかけたところ、たちまちおさまったとのことでした。

このありがたい徳を尊び、その御礼の行事を決めるべくお神籤(みくじ)を引いたところ、「四月神楽をせよ」とお告げがあったそうです。このことがきっかけで、大内田神楽がはじまり今にいたります。いく度か存続の危機もありましたが、「村が三軒になるまで神楽を続ける」という万念願のもと地元の人々に受け継がれております。

 現在は地元の氏子さんたちが中心となり、「大内田神楽保存会」が組織されています。なお、平成五年には赤村に唯一残る神楽、そして村歴史を代表する伝統芸能としての文化的価値が認められ、赤村指定無形民俗文化財となっております。

 今のスタイルとなったのは大正元年(1912)年に、赤幡神楽(築上町、福岡県指定無形民俗文化財)を受け継いでいた神職、神太郎右衛門から指導を受けたことに始まります。

 県内はおろか県外でも公演する機会が多い大内田神楽ですが、四月の最週末の土曜日に行われる大祖神社神幸祭には、必ず神楽が奉納されます。毎年の五穀豊穣、天下泰平を祈願して行われる年中行事として、多くの人々に親しまれております。

豊前岩戸神楽の中の大内田神楽

福岡県の田川市郡から東側の地域と大分県の一部を、明治になるまで「豊前」という国名で呼ばれていました。

江戸時代この豊前国を統治した各藩は、神楽や神幸祭などの祭りを奨励していました。江戸時代の太平の世に、その年の豊作、不作は社会を揺るがすほどの影響力があります。このため各藩は、祭りを奨励していたのです。

このような歴史的背景により、この地域にはたくさんの神楽が受け継がれています。現在確認されているものでは、約五十の団体によって神楽が受け継がれています。大内田神楽もそのひとつとされます。

豊前地方に伝わる神楽の多くは、式神楽と奉納神楽と呼ばれる二つの構成をとります。

式神楽は、榊(さかき)、幣(へい、しめ)、杖(つえ)、扇(おうぎ)、篠(ささ)、鈴(すず)、花、剣、弓矢などの採り物(とりもの)を手に舞うもので、神様の降臨に先立ちその場所を清め払う役割があります。五~七つの演目で構成されるのが一般的で、大内田神楽でも「四方の舞(散米)」、「折居」、「御福」、「花神楽」、「地割」の五つの演目があります。

奉納神楽は、氏子の祈願を神様に奉納するために舞うという役割があります。舞手が“現人神(あらびとがみ)”となり、神々の世界の安泰を演出する。このことでこの世の安寧、安らかな天の世界とそのもとに暮らす氏子たちの「天下泰平」を願う思いが込められます。

それは主に日本の神話を演目としているため、お面を被るのが一般的です。大内田神楽の演目では、「幣切り(しめきり、へいきり)」「前御神先(まえみさき)」、「舞上御神先(まいあげみさき)」、「綱御神先前段(つなみさきぜんだん)・綱御神先後段(つなみさきこうだん)」、「盆神楽」、「四方鬼(しおき)」、「岩戸」の七つの演目があります。

こうした大内田神楽の特徴は、同じ小倉藩内で継承されてきた他の豊前神楽と共通するところが多いと言われています。逆に言えば、大内田神楽を知ることで国の重要文化財とされている豊前岩戸神楽(旧豊前国内の各地で、30程度の保存団体で継承されています)の特徴をある程度理解することができます。

それでは次回、大内田神楽の舞に込められた意味、あるいは人々の思いについてお話ししたいと思います。乞うご期待です。


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