直方 地名の由来 ちょっと深い話

Blog 筑豊見聞録

「直方」と書いて間違いなく素直に地名を読める人は、実は少ない。筑豊に住む人や県内在住であればそんなことはないかもしれないが、県外の方は意外と読む事が難しい。「のおがた」と読むこの地名、どんな謂れがあるのだろうか。ちょっとうんちくが多くなるかもしれないが、わかってくると実に奥が深い地名の話、今回は直方の地名についてお話したい。

太古の地形にちなんだ「直方」

このサイトのコンテンツで、縄文時代の筑豊について取り上げたものがある。ここで「古遠賀湾」についてお話ししているが、直方市域の平野部がすっぽりと海の一部、直線的に内陸部へと入り組んだ入江となっていた。そんな地形の特徴、遠浅の干潟がまっずぐに広がっていたという事にちなみ「真っ直ぐな潟」が「のおがた」へと転じた。こんな説がひとつある。

干潟にはさまざまな生き物が生息し、魚や貝なども豊富で、当時の縄文時代の人々にとっては、食糧庫や栄養源として活用された。その証が直方市や鞍手町に今も確認できる貝塚である。このとうじ「のおがた」と呼ばれていたかは定かでないが、地名の由来としては説得力がある。

中世以降に生まれた「直方」という地名

南北朝時代に遠賀川を隔て、東側に幕府方、西側に天皇方が対峙し合戦へと発展した。この「天皇方」、「てんのうがた」と読み、それが転じて「のおがた」と呼ぶようになったという。もっとも漢字では「能方」と記す場合もあるようだ。(ちなみにこの「能方」という地名が指す場所は、現在の直方市中泉あたりという。)

この他にも説はいくつかあるが、「直方」という地名が史実にはじめて登場するのは、江戸時代に福岡藩の支藩である直方藩(東蓮寺藩)の誕生にある。このころには確実に「直方」と人々から呼ばれていたことは間違いない。

現在の直方市街地の中心を遠賀川が流れているが、その流路はカーブが少なく、直線的になっている。このことからすれば、先の干潟が一直線にのびる様子を想像できる。

一方、直方市と隣の福智町にまたがる山城、鷹取城の歴史の中に、応永六(1399)年南朝方の武将であった菊池武宗(肥後、現在の熊本県菊池地方を拠点とした)に攻略され落城したという記録がある。このほかにも戦乱の記録がここ鷹取城にあるが、南北朝時代の戦乱の舞台の一つだったことは間違いないようだ。中世にも「のおがた」という言い方が、この地に定着したのかもしれない。

地名ひとつとってもこれだけの深い話のある「直方」、話のネタとして活用してもらえれば幸いです、

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