筑豊戦国戦記 もののふの夢

本州側からの九州において玄関口だった門司、大陸からの玄関口であった博多、その間の内陸部における要衝だった筑豊地方には数々の山城がある。

覇権争いの舞台となった山城は、主に筑豊地方でも田川地域に多い。例えば香春嶽城(香春町)、鷹取山城(福智町、直方市)、戸城山城(赤村)、岩石城(添田町、赤村)などが代表的で、このほか益富城(嘉麻市)や笠置山城(飯塚市、宮若市)などもある。

これらの城をめぐり、もののふ達は何を夢見て、栄枯盛衰を繰り返してたのか…

その夢物語は、主に以下の3つのような戦記に代表される。

南北朝の争いと筑豊

鎌倉幕府が倒れ天皇親政(後醍醐天皇による、のちの南朝)へと世が変わろうとするも、2年足らずで破綻する。この天皇親政に反発した武家たちは、光明天皇を担ぎ上げ幕府を開いた(北朝の始まり、のちの室町幕府)。中央の権力がに二分されたこの時代を南北朝時代と呼ぶが、それは地方にも影響し、各地の武家たちは南北に分かれ勢力争いを繰り返した。今から約700年前の出来事は、筑豊地方においても北方、南方に分かれて争った記録が残っている。

北朝方の中心である足利尊氏は、実は筑豊地方にゆかりのある人物。京で新田義貞などの南朝方勢力との戦乱に敗れ、一時九州へと下向する。その時拠り所とした場所が興国寺(福智町)と言われ、境内には身を潜めた洞穴などもある。北朝勢力を回復した時には、障子ヶ岳城(香春町・みやこ町)の築城を命じ、尊氏も筑豊のこの地を要衝と考えていたことがわかる。

興国寺(福智町)

一方南朝方の動向は、肥後(今の熊本県あたり)の菊池氏が筑後から、筑豊へと進出した。時の菊池家当主菊池武重は、九州でも古い家柄にありその人望も高かったと聞く。こうした争乱の時代に武重は、戸城山(赤村)、大善寺城(通称城山、田川市)などの山城を築き、馬ヶ岳城(みやこ町)、松山城(苅田町)などとともに拠点として南朝勢力の拡大を図りつつ、北朝方と攻防を繰り広げていた。

南北朝時代は約60年近くに渡って勢力争いを続けた時代。この間、筑豊地方でも大小の戦闘が勃発したと伝えられている。

戦国大名大内、大友両家の利権争い

香春岳城

南北朝時代の終焉(1392年)は、室町幕府による安定した統治をもたらした。しかし太平の時代は長くなく、次第に日本各地で大小の戦乱が勃発し戦国時代へと突入する。このうち周防(今の山口県あたり)を拠点とする大内氏の勢力が強大化し、博多を擁する九州へと勢力拡大を画策する。門司へと上陸をはたした大内家当主大内盛見(おおうちもりはる)は、そのまま南下し金辺峠を越え田川地域の香春へと勢力拡大した。

この報を受けた豊前国守大友持直(おおとももちなお)は、本拠地府中(今の大分市)より軍をまとめ出征。北上して田川地域に侵攻し岩石城(添田町・赤村)を攻略し、英彦山へと向かう勢いの大内軍と激突した。

記録によると時は応永6(1399)年、大友勢の兵45,000、対する大内勢は兵50,000あまりとある。両軍合わせて10万近くにのぼる兵がひしめき合う様子は、当時の九州では珍しいことであっただろう。それほど両勢力が九州、そして国際貿易港博多を重要視していた証である。

永禄年間(1558~1570年)には、大内氏に代わり中国地方の覇権を握った毛利氏が九州へと勢力拡大を図り、再び大友氏と事を構える。この間にも先述の山城群は戦闘の舞台となり、数々の争いがあったことと記録にはある。

豊臣秀吉の九州征伐

戦国時代の終わり、天下統一へと覇権の拡大を図る豊臣秀吉は、実は筑豊地方とゆかりが深い。それは豊臣秀吉が南九州の島津氏を服属させるため征討軍を編成し、自らも九州へと出征(九州征伐)することから始まる。

1500年代後半の諸勢力(『福岡県の名城』より)

天正十五(1587)年、上洛を求める秀吉に対し、島津氏はむしろ積極的に九州制覇へと強める。このような動向に対し秀吉は、全国の諸大名に命じ30万とも50万にも及ぶとされる軍を編成し、島津氏を牽制。島津氏を屈服させ、九州を平定しようと画策し、ついに進軍を命じる。

門司に上陸した豊臣軍は、九州の東側と博多から鹿児島へと向かう道へと軍を二手に分けた。このうち東側を進んだ一軍は、大将を豊臣秀次(秀吉の弟)、軍監として黒田官兵衛が指揮することとなり戦闘に及んだ。行軍する途中香春岳城(香春町)を攻略したことを皮切りに、筑後を拠点とする秋月種実(あきづきたねざね)の勢力下である戸城山城(赤村)岩石城(添田・赤村)と瞬く間に落城させた。なお、当時秋月氏は島津氏と同盟関係にあり、豊臣方への徹底抗戦の姿勢にあった。

この勢いに驚いた種実は、隠居の住処としていた益富城(嘉麻市)に立てこもり、体勢を立て直し島津氏の援軍を請う。しかし、豊臣軍の勢いは種実の予想をはるかに超え、益富城の近くに一夜城を築くほどであった。

このとき、城下には付近の住民の手を借りて無数のかがり火を炊いてより多くの軍勢がひしめき合っている様子をつくり、早期降伏を促したという逸話もある。その逸話を物語るように今に伝わるのが、秀吉の陣場織(嘉麻市所蔵)で、これは秀吉が協力してくれた地元住民に贈ったものという。

以上のように簡単ではあるが、筑豊地方にも幾多の戦記が埋もれている。それは本州から上陸し、博多へとつながるルートを取る上で戦略的見地から重要視されていたために、免れることのできない戦乱だった。今ではひっそりと佇む山城群からは想像ができないが、まぎれもない事実として語り継がれている。

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