クジラと筑豊の深~い関係

内陸部に位置する筑豊地方、そのソウルフードと言われればやはりホルモン、もつ鍋が真っ先にあげられる。

炭鉱マンたちのスタミナを支えたホルモンに対し、重労働で汗を流すことから塩分補給のために重宝されたのが鯨肉だ。ここでは今も筑豊人に根強い人気と言える鯨肉についてお話ししたい。

筑豊に残るクジラの記録

中学生のとき、「塩クジラ」というあだ名の先生がいた。弁当のおかずがいつも塩クジラだったのでこの名がついたそうだ。

それから数十年。捕鯨禁止の時勢で、クジラ料理は高級品となり、食卓にのぼる機会も少なくなったといわれる。

ところが遠賀川上流の田川郡では「塩クジラあります」の看板をよく見かけるし、飯塚市本町にも塩クジラ売りの行商がやって来る。筑豊人は今も塩クジラが好物のようだ。

その理由を考えると、この地域には古くからクジラに親しんだ歴史がある。

直方市北部の植木の天神橋貝塚からはマッコウクジラの歯を加工した装飾品が見つかっており、縄文時代のこの地に住む人々がクジラを食べていたことがわかる。

古い時代は別にしても、江戸時代の1670(寛文10)年、遠賀郡水巻町の蔵冨吉右衛門は、クジラの油で水田の害虫を駆除できることを発見した。そこで福岡藩は、遠賀川河口の芦屋に駆除用の鯨油をあつめ、水運を利用してこれを上流まで流通・普及させている。

また幕末の鞍手郡古門村(鞍手町)の国学者、伊藤常足の日記には、鯨油や鯨肉を買ったりもらったりした記録がひんぱんに見える。当時、農業用の鯨油とともに食用の鯨肉もひろまったと考えてよいだろう。

今日でも、飯塚市内野では歳末の餅つきが終わった夜に「年とりもち」の料理を食べる風習があり、餅のほかにオバイケ(尾びれの脂身)入りのクジラ汁「年とりクジラ」と「年取りイワシ」が膳にならぶ。これは最小と最大の魚を食べるという意味があるという。同様の風習は旧庄内町(現在の飯塚市)にもあった。一方、田川市の風治八幡宮では、川渡り神事のとき、神主たちにオバイケの酢みそあえをふるまうのが近年までのしきたりだった。

これらのことから、特別の行事にクジラを食べる伝統があり、明治以降は次第に塩クジラという形で庶民の食卓にあがるようになったと思われる。

クジラベーコン

炭坑とクジラ、そして現代へ

とびきり塩分が多い塩クジラは、大量の汗をかく八幡製鉄所や周辺の港湾労働者に重宝された。

また保存がよく安価なところから、北九州地方と地理的にも縁の深い筑豊の炭鉱にもひろまった。

炭鉱記録画で知られる山本作兵衛さんは、1906(明治39)年ころ、牛肉1斤25銭に対し、行商人が売る塩クジラは半値以下の10銭と書き残している。

また塩分のつよい塩クジラは坑内のガスにも変質せず、おいしく食べられたという。保存食としての観点からも塩クジラは重宝されたようで、冷蔵庫が広く普及していなかった時代、庶民の食卓に心強い存在だったことは想像に難くない。

また、戦前くらいからは高級品として知られるクジラベーコンが人々の暮らしに登場し、全国的に普及した。このとき例外なく筑豊地方でも人気となり、人々の食卓を飾った。

以上のように、捕鯨船が出入りするような環境にない筑豊でも、クジラを食する文化は人々に馴染みが深い。

古くは縄文時代より親しまれた筑豊の食文化塩クジラは、いつの頃からは定かではないが海のない筑豊の「ソウルフード」となったようだ。

捕鯨が世界的に禁漁となっている現代ではあるが、筑豊各地のスーパーなどでは少ないながらも塩クジラを目にする。数千年の時を超えて受け継がれている筑豊の「ソウルフード」、ヤマで食べる海の幸は噛めば噛むほど、積み重ねた歴史という旨味がでるののではないだろうか。

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