もともと「筑豊」という地名や地域を指す言葉は、明治時代になるまで存在しなかった。明治になってどんな経緯から、「筑豊」という地域の呼ばれ方がされるようになったのだろう?
ここでは福岡県の筑豊地方という呼び方が生まれたところにクローズアップし、福岡県のHPをはじめ天気予報などでもおなじみの地方の特徴をみてみましょう。
近代化の幕開けに注目される石炭
石炭の採掘がはじめられた江戸期には、福岡藩も小倉藩も石炭の採掘、販売を規制していた。これが一変するのが明治維新であった。この当時海外をみると、産業革命によって生まれた蒸気機関が当たり前のように活躍していた。そのエネルギー源は石炭。つまり、日本の近代化には石炭がどうしても必需品とならざる得なかった。
大政奉還を経て近代化へと歩み始めた明治2(1869)年、鉱山開放令が発布され、「誰でも石炭を掘ってよい」「誰でも石炭を売ってよい」となると、「石炭で儲けよう」と大小さまざまな山師が筑豊の炭田に殺到し、乱掘をはじめた。
日本の近代化をエネルギーから支えた石炭鉱業は、日本各地に勃興した炭坑そしてその周囲には独自の生活圏を形成し、まさしく炭坑社会を築き上げた。その2大産地としてしられる北海道と筑豊には、日本のみならず海外からも多くの人々を集めた。
「筑豊」の誕生
石炭の乱掘に危機を抱いた福岡県は、明治18(1885)年遠賀川流域の筑前から豊前にわたる5つの郡(遠賀・鞍手・嘉麻・穂波・田川)に、組合をつくり統制のある石炭採掘をする。そして同年11月、その5郡の組合が直方に大同団結し、「筑前国豊前国石炭坑業人組合」が誕生した。当時は石炭を川ひらたで運ぶことが主流であったため、そして炭坑が分布していたのが先ほどの5郡にわたることから、「筑豊」と呼ばれた地域が現代とは異なっていた。
「筑前国豊前国石炭坑業人組合」は、同業者による組合として日本で最初に発足した団体であり、その当時日本最大規模の団体でもあったという。「筑豊」という呼称は、この組合が組織されたこの頃が始まりと考えられ、明治26(1893)年「筑豊石炭鉱業組合」と改称されることで、「筑豊」という名称が全国規模で知れ渡ることになる。
筑豊御三家と呼ばれた麻生太吉、貝島太助、安川敬一郎をはじめ、地場資本の炭鉱主たちが集まった「筑豊石炭鉱業組合」は、石炭採掘・販売の統制を図るだけでなく、地域社会発展のための活動も積極的に行った。
筑豊御三家をはじめ、炭坑経営者が会合を行っていた「筑豊石炭鉱業組合直方会議所」は、現在直方市石炭記念館の本館として一般に公開されている。明治43(1910)年に竣工した木造2階建ての洋風建築は、入口のアーチ、室内の天井や階段の手すりなど往時の姿のままで、館内では、筑豊炭田の歴史や文化を今に伝える役割を担っている。
明治時代は近代化、欧米諸国と比肩されるような国家を目指した時代。そのため蒸気船をはじめ、工場や発電所などに使われるのは石炭が主流であった。このため筑豊炭田が寄せられる期待も大きかった。その表れの一つが、炭坑を軸として港まで結ばれた鉄道網である。大都市間を結ぶ本線の敷設が主として展開された明治10~20年代にあって、筑豊の鉄道網はローカル線としてはかなり早い段階に整備着手されている。
明治24(1891)年、筑豊興業鉄道の直方若松間に開業した事を皮切りに、九州鉄道、豊州鉄道といった私鉄各社が直方、飯塚、田川の各都市のほか炭坑までの引込線など、まさしく網の目のように鉄道網が整備された。ここまで鉄道網が整備された地方は稀で、ほかに石狩炭田を擁する地域があげられるほど。それだけ各方面からの期待が石炭に寄せられていたため、筑豊の鉄道網は過密度で言えば日本一だったかもしれない。
そして各炭坑の周辺には労働者を中心として集落の形成、商業地や娯楽施設が立ち並び、賑わいをみせていた。筑豊地方にも映画館や芝居小屋が乱立していた時期があり、嘉穂劇場はそのことを今に残す貴重な文化遺産である。このように炭坑を中心に形成された社会は、都市、交通や流通、そして人々の暮らしにまで大きな影響を与えた。それは今でも筑豊の住む人々の暮らしに根ざしているのである。