食として極め続けるホルモン

ホルモン食の起源

ホルモン聞くとモツ鍋やもつ焼きなどを連想するだろう。ホルモン、その語源を尋ねてみると以外にも諸説ある。主なものは以下の二つ。

 ・大阪弁の「ほ(放)るもん」という方言に、捨てるもの、もともとは食さない内臓

 ・ドイツの医学用語でHormon(ホルモン)、英語のhormoneは、動物体内の組織や器官の活動を調節する生理的物質の総称とされるところに由来

 戦前から食されていたスタミナ料理は、スッポン料理などもホルモン料理と呼ばれていた事実もあることから、ホルモンは「放るもん」とは関係なく、むしろ栄養豊富、滋養強壮の源と考えられたためにつけられた俗称の可能性が高い。

炭鉱夫たちに愛され、食されたホルモン

 かつて筑豊の一大産業と言えば、石炭であり、最盛期には300を超える炭坑が乱立していた。明治期の近代化とともに急速に成長し、その影響で多くの人々が職を求めてこの地に訪れた。そのうち朝鮮半島から出稼ぎ、もしくは旧日本軍による強制連行によって、炭鉱で働いていた朝鮮人たちが、朝鮮語の「チャン」(腸)と呼んで食していたので、今だに「とんちゃん」という言い方もある。

 とにかく安く、かつ日々の重労働に対する貴重なたんぱく源を手軽に摂取できることから、炭鉱マンの間で瞬く間に広まった。当初は七輪の上にセメント紙(セメント袋に使われていた紙。厚手で耐熱、防水加工が施されており、無料同然で手に入ったため広く普及した)を敷いてその上に具材を乗せて調理していたことで知られる。

 

 1920年代にはその価格の安さと、精力剤としての効能の高さから日本中の食卓にも広まった。この背景には大正12(1923)年に発生した関東大震災をはじめ、第一次大戦後の景気低迷や昭和4(1929)年に勃発した世界恐慌など、世界情勢の不安と混迷する世界経済から日本国内の景気の先行き不透明感が、一般庶民の家計を圧迫していたことが考えられる。このため牛や豚といった精肉は高価で、ぜいたく品としてのイメージを創る一方で、コストパフォーマンスの高いホルモンは庶民の栄養剤として普及したようだ。第二次大戦後の混乱期から昭和30年代、このような庶民の食文化は受け継がれ、筑豊のホルモン鍋は、広くて中央がくぼんだ鉄板で調理されることが一般的となった。

 広く人々に広まるうちに、タレににんにく醤油や味噌をとバラエティ豊かになり、具材となる牛豚の内臓も大腸、小腸(丸腸)、ハツ(牛の心臓)、センマイ(牛の第3胃袋)など、それぞれの店で創意工夫がなされている。しかし、変わらないのが博多のモツ鍋のようにスープで煮込むことはなく、先ほど述べた鉄板に具材をのせ、たっぷりの野菜で蓋をするかのように盛り付けた上に、好みのタレをかけるというスタイル。つまり野菜の旨みや甘みを活かして味付け煮込むのが筑豊でのホルモン鍋の独自のスタイルである。

多彩なホルモン、食文化の発展

今でも筑豊各地にホルモン鍋を食することができる。この意味では激戦区であるが、創意工夫を凝らした逸品はバラエティに富み、鍋ひとつに注ぎ入れた思いに多くのファンが集う。それは筑豊地方に住む人々から根強く愛されるだけでなく、筑豊地方以外の人々をも魅了している。

 何かと忙しい私たち現代人にとっても、明日への活力を得るには最適なメニューの一つだろう。坑内で戦う炭鉱マンが生んだ食文化、それは今や筑豊のソウルフードとなっている。2013年には田川ホルモン喰楽部がB級グルメグランプリで第6位となってからは、全国的に知られるようになった。筑豊でのおもてなしには欠かせない逸品である。

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