この記事でわかること
- 筑豊炭田遺跡群の構成遺産
- 「筑豊」の生い立ちと炭坑の発展
- 遺跡群構成遺産それぞれの特徴
筑豊炭田遺跡群の構成遺産
国指定史跡の指定、従来は一つの資産、物件に対するものが多かったが、ここ近年はいわゆるユニットとしてひとつのテーマをもった複数の文化遺産、物件をまとめて指定される傾向がある。そんな近年のトレンドの中、筑豊炭田遺跡群も指定された。それは以下の3つの遺跡から構成されている。 ・目尾炭坑跡(飯塚市) ・旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所および救護練習所模擬坑道(現在の直方市石炭記念館) ・旧三井田川鉱業所伊田坑跡(現在の田川市石炭記念公園) 筑豊といえば炭坑、なぜいまさらと感じる人も多いことかもしれない。実はこれまでも国から文化財として価値を認められ、目尾炭坑跡以外は国の登録文化財とされている。これを聞いたらさらに「なぜ?今までも国から認められているのに…」と感じるかもしれない。 現行の法律(文化財保護法)では、登録文化財は国の登録原簿に記載されるだけの制度であり、登録された文化財の保存、修復やその活用について、何らかの予算をともなう事業計画を立案した際に国からの補助金や助成については限定的となっている。このため、もっぱらその負担が所有者や管轄する市町村にのしかかることになる。 一方、国の重要文化財をはじめ、史跡、天然記念物、名勝といったものに指定された場合、所定の事務手続きを経て、国庫からの補助金などが対象となる。つまり、事業費の一部を国が財政負担するため、国の文化遺産として認識され、後世へ伝えるべき責務を負う形になる。 今回の構成資産の3つは、明治維新、日本の産業革命への橋渡しから現代までの過程において、貴重な価値を有すると認められたが由縁のこととなるのである。「筑豊」の生い立ちと炭坑の発展
探そうと思えば日本各地まだまだたくさんある石炭関係の産業遺産、その中で上記3つの文化遺産が国の文化財として選定された背景をみてみよう。 北海道とともに石炭の産出地として、明治政府から期待された福岡県、その主な地域は三池(現在の大牟田市周辺)とともに今で言う筑豊地方とその周辺だった。それも明治の初め頃はまだ筑豊とも呼ばれてはおらず、出来立てほやほやの海軍にとって、予備炭田としての役割が担われ各方面から注目をされつつあった。 脚光を浴び始めると、人々をはじめ巨大な資本が集まりはじめたが、一方で大小の炭坑が乱立し、このための弊害も多くなりもめ事や喧嘩沙汰が絶えなくなった。乱立した炭坑どうしで、政治や法律とは違った、共通認識や取り決めが必要となり、筑前國豊前国石炭坑業組合(筑豊石炭鉱業組合の前身)が組織された。それは明治18(1885)年のことであった。 こうして遠賀川流域で炭坑がある地域をまとめて「筑豊」と呼ばれるようになった。ひとつの炭坑を中心に、人々が集まり街が形成され、近代的な社会が生まれた。このことを時として「炭坑社会」などと呼ぶこともある。 在地の有力者やのちに財閥と言われる大企業の資本が、江戸期から引き継がれたタヌキ掘り的な採炭から、西洋からの近代的な技術導入と施設整備によって、飛躍的に産炭量を増大させた。これは日本の産業革命の一側面から得られた近代日本の発展形成に、筑豊炭田の各炭坑が日本の動力として欠かせなかったのである。遺跡群構成遺産それぞれの特徴
目尾炭坑跡




旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所および救護練習所模擬坑道
直方という地は、飯塚方面から流れてくる遠賀川と、その支流でも最大で、田川地域を流れる彦山川とが合流する地点にある。このため、水運、陸運ともに重要視され、かつ人々の行き交い集まる地として栄えた。





旧三井田川鉱業所伊田坑跡(現在の田川市石炭記念公園)



まとめ
近代化産業遺産として、国が認めた文化財としての価値については、これまで述べたとおり。それらをまとめて日本史という脈略のなかに位置づけると、どのようなことが言えるだろうか。 近代化を急ぐ日本にとって、「鉄は国家なり」というスローガンを設定した。聞き覚えのある人も多いと思うが、その象徴ともいえるのが世界遺産の一つとなった八幡製鉄所だ。 響灘の海運を利用し海外の鉄鉱石を輸入して、鉄を生産するためには莫大な燃料が必要となる。その燃料として期待を寄せられていたのが筑豊炭田。先述したように日鉄が二瀬に炭坑を開いて進出したことにも裏付けられる。 巨大な資本が炭田に進出することで、労働力として期待された人々もまた集まった。それも安い賃金で、現代では考えられない環境で労働を強いられた。これには朝鮮半島を中心とした地域から強制的に連行された事実もある。 先進技術の導入という華々しい部分を見ていく一方で逃れられないのが、人権という問題。先にも示したが、人命軽視の過去を物語っている部分もある。 つまり、筑豊炭田遺跡群は日本史の脈略の中では、光と影の部分が存在し、それは現代の私たちに大きなメッセージをもっているものである。終戦記念日にあたるこの時期に、今一度考えさせられる文化遺産と言える。 明治日本の近代化産業遺産群として、世界遺産候補となった時、残念ながら筑豊の先述の文化遺産の数々は、他地域と比較して現存の物件数や資料調査が少ないために除外された経歴がある。ただ、今後の取組如何によっては、世界遺産への追加登録も十分な価値を有している。 八幡製鉄所は筑豊炭田がなければ、その地に誕生しなかったのかもしれないし、人権の世紀とされる21世紀は、20世紀の資本主義が招いた苦い経験やそれに辛苦した人々の思いによって、大きな教訓を得ているのだから。この記事を書いた人
松浦幸市(筑豊百景プロジェクト・経営コンサルタント)
中学高校社会科教職員免許・学芸員資格保有。福岡県田川郡福智町を拠点に、2020年より筑豊地方を中心に現地取材を重ね、訪問した事業所・文化施設は延べ100件以上。一次情報にもとづく筑豊の歴史・文化を専門的な知見で発信し続けている。


コメント
[…] この二本の大きな煙突は、もともとは炭坑の施設でした。田川市石炭記念公園(いまさら聞けない!? 筑豊炭田遺跡群 国指定史跡へのワケ)は、旧三井田川鉱業所を公園化した施設。炭坑はこの地域の象徴的存在で、人々が集い、街が生まれ、文化が育まれました。 […]
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