いまさら聞けない!? 筑豊炭田遺跡群 国指定史跡へのワケ

Blog 筑豊見聞録
旧三井田川鉱業所竪坑櫓(コールマインフェスタにて)

平成30年に指定となったものの、その具体的な内容や、国指定史跡としての価値を知りたいけど、どれを参考にしたらいいかわからない。あるいは、「え、そうだった⁉︎」とか、全く知らなかった。そんな声が聞こえてきそうな筑豊炭田遺跡群、この稿は少しでも理解を深めてもらうため、そのポイントをまとめてみました。

筑豊炭田遺跡群の構成遺産

国指定史跡の指定、従来は一つの資産、物件に対するものが多かったが、ここ近年はいわゆるユニットとしてひとつのテーマをもった複数の文化遺産、物件をまとめて指定される傾向がある。そんな近年のトレンドの中、筑豊炭田遺跡群も指定された。それは以下の3つの遺跡から構成されている。

・目尾炭坑跡(飯塚市)
・旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所および救護練習所模擬坑道(現在の直方市石炭記念館)
・旧三井田川鉱業所伊田坑跡(現在の田川市石炭記念公園)

筑豊といえば炭坑、なぜいまさらと感じる人も多いことかもしれない。実はこれまでも国から文化財として価値を認められ、目尾炭坑跡以外は国の登録文化財とされている。これを聞いたらさらに「なぜ?今までも国から認められているのに…」と感じるかもしれない。

現行の法律(文化財保護法)では、登録文化財は国の登録原簿に記載されるだけの制度であり、登録された文化財の保存、修復やその活用について、何らかの予算をともなう事業計画を立案した際に国からの補助金や助成については限定的となっている。このため、もっぱらその負担が所有者や管轄する市町村にのしかかることになる。

一方、国の重要文化財をはじめ、史跡、天然記念物、名勝といったものに指定された場合、所定の事務手続きを経て、国庫からの補助金などが対象となる。つまり、事業費の一部を国が財政負担するため、国の文化遺産として認識され、後世へ伝えるべき責務を負う形になる。

今回の構成資産の3つは、明治維新、日本の産業革命への橋渡しから現代までの過程において、貴重な価値を有すると認められたが由縁のこととなるのである。

「筑豊」の生い立ちと炭坑の発展

探そうと思えば日本各地まだまだたくさんある石炭関係の産業遺産、その中で上記3つの文化遺産が国の文化財として選定された背景をみてみよう。

北海道とともに石炭の産出地として、明治政府から期待された福岡県、その主な地域は三池(現在の大牟田市周辺)とともに今で言う筑豊地方とその周辺だった。それも明治の初め頃はまだ筑豊とも呼ばれてはおらず、出来立てほやほやの海軍にとって、予備炭田としての役割が担われ各方面から注目をされつつあった。

脚光を浴び始めると、人々をはじめ巨大な資本が集まりはじめたが、一方で大小の炭坑が乱立し、このための弊害も多くなりもめ事や喧嘩沙汰が絶えなくなった。乱立した炭坑どうしで、政治や法律とは違った、共通認識や取り決めが必要となり、筑前國豊前国石炭坑業組合(筑豊石炭鉱業組合の前身)が組織された。それは明治18(1885)年のことであった。

こうして遠賀川流域で炭坑がある地域をまとめて「筑豊」と呼ばれるようになった。ひとつの炭坑を中心に、人々が集まり街が形成され、近代的な社会が生まれた。このことを時として「炭坑社会」などと呼ぶこともある。

在地の有力者やのちに財閥と言われる大企業の資本が、江戸期から引き継がれたタヌキ掘り的な採炭から、西洋からの近代的な技術導入と施設整備によって、飛躍的に産炭量を増大させた。これは日本の産業革命の一側面から得られた近代日本の発展形成に、筑豊炭田の各炭坑が日本の動力として欠かせなかったのである。

遺跡群構成遺産それぞれの特徴

目尾炭坑跡

目尾炭坑(中央上に竪坑、煙突がみえる)

飯塚市教育委員会からの文化財調査報告書によれば、明治5(1872)年筑豊御三家の一人麻生太吉(麻生太郎氏の曽祖父)が操業開始した炭坑。明治14(1881)年、筑豊の炭坑でははじめて、杉山徳三郎によって蒸気機関を利用した坑内排水用のスペシャルポンプを導入した。

杉山徳三郎

スペシャルポンプの導入は、産業革命で生まれた西洋の技術を日本国内でも早い段階で取り入れた先駆的な事例で、その後各炭坑へと広まり石炭鉱業の効率化をまねいた。つまり、スペシャルポンプの導入がなければ、日本の産炭量の半分近くを占めていたことや国内外へのエネルギー面からの貢献という歴史をつくることはなかったと言える。

現在の目尾炭坑跡地
発掘調査の一コマ

目尾炭坑跡は、日本の近代化への道のりでも、重要なポイントを生み出し、その後の鉱工業、重工業を中心とした高度経済成長への母体のひとつが、目尾炭坑跡と言っても過言ではない。

旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所および救護練習所模擬坑道

直方という地は、飯塚方面から流れてくる遠賀川と、その支流でも最大で、田川地域を流れる彦山川とが合流する地点にある。このため、水運、陸運ともに重要視され、かつ人々の行き交い集まる地として栄えた。

直方市石炭記念館
大正期炭坑経営者(会議所前にて)

このような背景があって、明治43(1910)年に直方会議所本館、その2年後には救護練習所模擬坑道が造られたが、ともに当時の姿のまま今に至っている。会議所の本館は、直方石炭記念館として炭坑操業時に使われてきた機材や採炭作業の写真、文書などが展示され、一般公開されている。

記念館内の様子
屋外展示物

注目すべきは救護訓練のための模擬坑道で、炭坑災害が多かったのを受け整備され昭和43年まで活用されていた。この模擬坑道は全国的にも珍しく、現存で当時のまま見学できる場所はここだけかもしれない。

救護練習所模擬坑道
坑道内部

産炭量の増加とともに発生件数が増加した筑豊の各炭坑での坑内事故は、明治から大正にかけて全国の炭坑ガス爆発事故302件のうち、半数を超える水準だった。また、当時の欧米諸国の炭坑内における事故致死率が3.7%程度に対し、筑豊各炭坑では22.7%と異常な数値を記録していた。(永末十四雄『筑豊』NHK出版参照)

この数値は、資本主義が生み出した弊害を表面化し、当時の人命軽視の風潮を証左するもの。模擬坑道は非常時の対応迅速化を目的に整備されたが、表向きは人命救助という大義名分がある一方で、プロレタリア文学にも描写されるような利益優先主義が見え隠れする。

このような点で模擬坑道は、現代社会を生きる私たちにメッセージを投げ掛けてくるものでもある。

旧三井田川鉱業所伊田坑跡(現在の田川市石炭記念公園)

旧三井田川鉱業所伊田坑(昭和25年 橋本正勝氏撮影)

田川伊田駅からその威容を誇るかのような、巨大な二本煙突、竪坑櫓が目に入る。二本の大きな煙突はともに約45mを測り、竪坑櫓は28.4mとなっている。

ドイツ製のレンガで大半を占める煙突、スコットランドのメーカー製の刻印が見られる竪坑櫓は、西洋技術を積極的に導入した証拠であり、近代化へと歩む明治日本の象徴の一つである。

竪坑櫓
二本煙突

明治41(1908)~42(1909)年に竣工した二本煙突と竪坑櫓は、ともに国内最大級のものであり、炭層深部(地下300m超)の採炭を目的としたもので、それまで斜坑により採掘することが常識だった国内では画期的なものだった。

ちなみに明治期日鉄二瀬炭坑、三菱方城炭礦とともに日本の三大竪坑とされた。巨大な資本は煙突、竪坑のみならず、構内に当時の最先端技術をもたらした。財閥と呼ばれた三井により、近代化への加速を早めたことを今に示している。

まとめ

近代化産業遺産として、国が認めた文化財としての価値については、これまで述べたとおり。それらをまとめて日本史という脈略のなかに位置づけると、どのようなことが言えるだろうか。

近代化を急ぐ日本にとって、「鉄は国家なり」というスローガンを設定した。聞き覚えのある人も多いと思うが、その象徴ともいえるのが世界遺産の一つとなった八幡製鉄所だ。

響灘の海運を利用し海外の鉄鉱石を輸入して、鉄を生産するためには莫大な燃料が必要となる。その燃料として期待を寄せられていたのが筑豊炭田。先述したように日鉄が二瀬に炭坑を開いて進出したことにも裏付けられる。

巨大な資本が炭田に進出することで、労働力として期待された人々もまた集まった。それも安い賃金で、現代では考えられない環境で労働を強いられた。これには朝鮮半島を中心とした地域から強制的に連行された事実もある。

先進技術の導入という華々しい部分を見ていく一方で逃れられないのが、人権という問題。先にも示したが、人命軽視の過去を物語っている部分もある。

つまり、筑豊炭田遺跡群は日本史の脈略の中では、光と影の部分が存在し、それは現代の私たちに大きなメッセージをもっているものである。終戦記念日にあたるこの時期に、今一度考えさせられる文化遺産と言える。

明治日本の近代化産業遺産群として、世界遺産候補となった時、残念ながら筑豊の先述の文化遺産の数々は、他地域と比較して現存の物件数や資料調査が少ないために除外された経歴がある。ただ、今後の取組如何によっては、世界遺産への追加登録も十分な価値を有している。

八幡製鉄所は筑豊炭田がなければ、その地に誕生しなかったのかもしれないし、人権の世紀とされる21世紀は、20世紀の資本主義が招いた苦い経験やそれに辛苦した人々の思いによって、大きな教訓を得ているのだから。

コメント

  1. […] この二本の大きな煙突は、もともとは炭坑の施設でした。田川市石炭記念公園(いまさら聞けない!? 筑豊炭田遺跡群 国指定史跡へのワケ)は、旧三井田川鉱業所を公園化した施設。炭坑はこの地域の象徴的存在で、人々が集い、街が生まれ、文化が育まれました。 […]

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