近代化への礎 筑豊御三家

御三家、その時代の傑出した存在を表す慣用句であることはいうまでもない。昭和の芸能界を席捲した御三家、新御三家などはその典型例。この慣用句は、筑豊地方の英傑にも使われ今に至っている。筑豊御三家、それは麻生太吉(1857~1933年)、貝島太助(1845~1916)、安川敬一郎(1849~1934)の3英傑の敬称である。幕末から明治・大正にかけて、激動の時代を炭坑とともに駆け抜けた。坂本龍馬のようような偉人伝にも比肩するエピソードをここにまとめたい。

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麻生太吉

麻生太郎副総理の曽祖父である麻生太吉は、旧立岩村栢の森(かやのもり、現在の飯塚市立岩)に生まれ、代々庄屋として名高い家柄にあった。もともと藤原家の子孫と言われ、鎌倉時代に遠賀郡麻生郷を拠点としたことにより、麻生姓を名乗るようになったと伝わる。

明治という新時代に石炭の将来性に期待を寄せた太吉は、父賀郎とともに「焚き石掘り」といわれ揶揄されていた石炭採掘を目尾で取り組む。太吉は地域の役職の傍ら、石炭まみれになりながらも周囲を顧みずに打ち込み、明治18(1882)年には鯰田炭坑の経営に乗り出した。

これを皮切りとして太吉の事業家人生は始まった。いかに日本全体が近代化を急ぐとはいえ、炭坑経営は順風満帆とはいえず、常に波乱や危険との隣りあわせであった。

坑内での落盤事故や坑内火災など、度重なる災難を被った炭坑主も多く、経営危機はおろか明日の食をも窮するような状況にもお陥ることなど日常茶飯事であった。これには太吉も例外ではなく、炭坑経営安定化のため悪戦苦闘の日々が続いた。

しかし、そんな危機的状況から奇跡的に脱却できたのは、太吉の強運のなせる業と言われている。その代表的なものは、

・明治22(1889)年 三菱へ鯰田炭坑売却

・明治27(1894)年 住友へ忠隈炭坑売却

・明治40(1907)年 三井鉱山へ藤棚・本桐二炭坑売却

いずれも太吉をはじめ麻生家が手塩にかけて育てた炭坑である。炭坑事業をもとに中央財閥からの融資や取引を経て、大正七(1918)年株式会社麻生商店を発足させる。

この一方で合資会社幸袋製作所(炭坑内で稼働する大型機械の製造等、初代社長伊藤伝右衛門)や嘉穂銀行、飯塚病院の開業、そして(株)筑豊興業鉄道(現在のJR九州飯塚~若松間を営業路線とした鉄道会社)の経営参画など、炭坑事業を中心に飯塚をはじめ筑豊地方の近代化を急速に進める原動力を生み出す。

晩年はセメント鉱業に注目し、石炭と石灰という筑豊の代名詞の鉱業発展に寄与した。以上のような功績は、筑豊地方のみならず日本の近代化、そして戦後の復興、高度成長に寄与したと言っても過言ではない。九州屈指の企業グループ、麻生グループの礎を創ったのが麻生太吉である。

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貝島太助

麻生太吉と同様、「焚き石掘り」という現場から生え抜きの経営者として知られる。

幕末期の弘化二(1845)年、現在の直方市圓徳寺門前にて出生。8歳の頃から炭坑内に父とともに出入りするようになり、石炭鉱業の将来性に魅せられ炭坑経営を志す。

明治2(1869)年、鉱山解放令(届け出さえ済ませれば誰でも石炭の採掘ができる主旨の政令)の公布に基づき、太助は、直方市の山部に一鉱区を入手して炭坑経営に乗り出す。落盤事故や坑内排水用のポンプなど大型機械への多額の投資が成果にならなかったなど、幾多の困難に遭遇。太助は事業失敗を3度経験しながらも不屈の闘志で炭坑経営に携わり、明治18(1888)年大之浦炭坑の経営から次第に頭角を現すようになった。

事業を起こしながらも結果的にうまく成果とならないことが多い太助だが、3度の大失敗にあっても得られたものがあった。それは人の縁である。幼少のころ貧しい事情から離散していた男四人兄弟が、太助の失敗のために勢ぞろいすることとなり、再出発へのきっかけをつくったことや、井上馨(初代農商務大臣)との縁を得ることで、急速に事業が拡大していった。

明治31(1898)年には貝島鉱業合名会社(のちに貝島鉱業株式会社に改名)を設立。

明治39(1906)年にはじまった遠賀川の改修工事にあたっては、組合から25万円(現在の貨幣価値に換算すると約2500万円)を寄附。大正6(1917)年には、炭鉱で働く技術者を養成するため、組合の直営で「筑豊鉱山学校」を設立。筑豊鉱山学校は、幾度かの名称の変更を経て福岡県立筑豊工業高校となり、福岡県立鞍手竜徳高等学校に統合され、地域の人材育成と産業振興に寄与してきた。

ヤマの任侠伝(麻生太吉と貝島太助)

実は麻生太吉と貝島太助は事を構えたこともあった。それは明治一四(1881)年に起きた本洞炭鉱(現在の直方市)の大火災がきっかけだった。

隣り合わせるように立地していた本洞炭鉱と藤棚炭鉱のうち、前者は堀三太郎、後者は吉川幹吉が所有していた。同じ鉱床でつながっていた二つの炭鉱は、吉川が堀から本洞炭鉱を買収する仮契約を結んでいたが、放火による坑内の火災は甚大なものとなり、両炭鉱とも採炭を再開する目途が立たなくなってしまった。

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藤棚炭坑(麻生時代)

吉川は太吉の妻の兄のひとりで、太吉は吉川の保証人となっていた。藤棚炭鉱を所有し経営するには、当時炭鉱を主とした事業家として成功していた太吉の援助が必要だったためである。

しかし、事は目論見通りにはいかず、藤棚炭鉱は坑道という坑道が火の海と化し、経営はおろか再起を懸けるには大き過ぎるダメージで被ってしまった。このため吉川が独力で立て直すことはほぼ不可能に近く、その債務や修復のための費用を肩代わりするつもりでいたのは太吉だった。

本洞炭坑(三井時代)

一方、吉川と仮契約を交わしていた堀は、契約通り本洞炭鉱を引き受けてほしいと吉川に迫るも埒が開かず、その保証人である太吉に直談判するようになる。

これに対し太吉は再三堀に断り続け、事は暗礁に乗り上げていた。右にも左にも動かない状況で登場するのが貝島太助である。太助は堀の後ろ盾とも言われ、今回の一件は世間からにわかに注目されていた。

この当時筑豊の炭坑王と言えば貝島と思っている人がほとんどだった。そして、堀の後ろ盾となっていることも多くの鉱夫が知っていることでもあった。今回の事件は、血気盛んな川筋気質っ子たちでもひっきりなしの噂となっていた。

やがて、貝島六太郎(太助の弟の一人)が太吉の元にやってきた。あらためて本洞炭鉱のことを引き受けてもらうよう、鬼神のごとき気迫を見せるも太吉は了承しなかった。

不服そうに大股で太吉の前を退席する際、六太郎は「これまでですな…それではいずれ」と捨て台詞を吐きながら去ったという。貝島一家の者が筋目を通しに来たにも関わらず、その面目を潰す格好となったのを受け、世間では「貝島はどう出るか、いずれ出入りとなるのでは?」などとささやかれた。

嵐の前の静けさが筑豊全域に漂った。一部には親分が子分を連れ、武器を手に、血生臭い出入りに腕まくりをしてるなど、静けさのな中にも不穏なムードに満ち満ちていた。

「本家っ、この際徹底的にやりましょう!」と血気立つと太吉の側近たちは、腕に覚えのある者どもを集め、武器を揃えるなど物々しさを増していた。このような麻生家に対し、太助は太吉に会談を申し込んできた。

会談場所の料亭に着いた太助は、当事者の堀のみを連れた2人でやってきた。そして対する太吉は幼少期からともに歩んだ瓜生長右衛門をともない、重々しい空気の中挨拶が両者の間で交わされた。少しの沈黙のあと、静かに語り始めたのは太助であった。

「もうお察しの事とは思いますが、本洞のこと、麻生さんあなたが受けてもらわねば男がすたります。苦しい懐事情はこちらも同じ。しかし、約束は約束です。この約束を反故にすれば筑豊中のヤマのモンたちの喧嘩の種になりますたい。ここは男のメンツをかけて引き受けてはくれませんか?」

この当時荒れモノの多いヤマの人々をまとめ、筑豊一とも言われる炭坑王の太助の声には貫禄とともに気迫が込められていた。それは決して脅しではなく、ここで腹を据えてやらねば大きな紛争へと発展し、ヤマのまとまりがなくなってしまう。これは自分たち炭坑主の問題だけでなく、筑豊全域の秩序を守る上でも重要な問題。本洞は何が何でも麻生が受けてもらわねば、こちらも困りかねない。太助の言葉には、そんな深い意味が込められていた。

そんな筑豊随一の炭坑王貝島太助の思いが込められた一言を、真摯に受け取った太吉は腹が決まった。

「わしも男ですたい。名が廃るようなことはできん。わかりました、引き受けましょう」

それを聞いた太助は、「それはよかった、これで若いモンの血を流すこともなくなった。町もいつも通りに戻れる。本当によかった」と太吉に寄り添い、お互い固く握手を交わした。

「麻生さん、この借りは必ずや別の機会に償いましょ。儲からない本洞とも言われちょります。わしも男です。損をさせてしまうような真似になりもうしますが、その償いは必ずいたしましょう」

太助は、年下の太吉に丁寧な口調で詫びを入れ、そのまま酒席となった。このときから太助と太吉には深い絆となって、後のヤマの発展を互いに支えあったという。

炭坑には流れ者と呼ばれる犯罪や夜逃げなどによって生まれ故郷を追われた人が多く集まっていた。一方では海外から強制労働のために連行されてきた外国人もいた。また、川筋気質と呼ばれる旧来からこの地に住む人々は、どこか唐竹を割ったような実直さがあり、感情表現がストレートな人が多い。こうした背景から、ヤマには細かな喧嘩沙汰から何百人もの郎党が出入りする争いが絶えなかった。その反面、ストレートな感情表現が豊かな人々は、裏表のない人付き合い、義理人情の関わり合いが深い絆となることもよく見られた。そんなヤマの人々の絆は、二人の炭坑王が結んだ絆にみられる任侠伝に象徴される。

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安川敬一郎

福岡藩士の家柄に出自である敬一郎は、嘉永二(1849)年福岡市の鳥飼に生まれた。16歳で婿養子となり、福岡藩校の修猷館(現在の福岡県立修猷館高校)、慶應義塾に学んだ当時のエリートである。筑豊御三家のなかでは異色の存在と言える。

慶應義塾在学中の明治7(1874)年、佐賀の乱にて兄が急死したとの報に、中途退学し帰郷する。帰郷した敬一郎は炭坑経営に着目し、福岡県芦屋で石炭販売の傍ら、明治炭鉱(現在の飯塚市頴田)、赤池炭鉱の開発に着手した。

他の御三家の二人と比べれば、異色と言える存在であるのが安川敬一郎という男。幕末の名士勝海舟のもとにも足を運び、来るべき未来像を先見の明をもって描きながら東奔西走したという。その意味では当時日本の置かれた状況を憂慮した坂本龍馬と比肩する情熱の持ち主だったのかもしれない。

明治炭鉱(現在の飯塚市頴田)、赤池炭鉱は明治27(1894)年には、石炭輸出高が134,000トンと言われ、これは当時の日本の総石炭輸出高の7.8%を占めたという。一見順風満帆とともみれるものだが、その過程は決して平坦なものではなく、先述の麻生、貝島と同様、最も苦慮したのは資金調達だった。

無松余韻という敬一郎の手記には、炭鉱業は本懐からのものではなく「家政の維持と子弟を養育するの資を充てむがための窮策」と記されている。幕末明治の混乱の最中、藩士の家柄に生まれたためにそれまでのものを捨てざるを得ず、無からのスタートを新時代に強いられたと考えられる。新しい時代のお家再興と事業経営は、並大抵のことではなかったのであろう。

敬一郎は息子の松本健次郎(松本潜と養子縁組)とともに、明治鉱業合資株式会社を主とし各種の事業を展開。明治鉱業は石炭の採掘と精製、そしてその販売は安川松本商店という形で華を開かせた。折しも日清・日露戦争における高需要にのって、経営基盤を大きくさせた。時代の恩恵によって、敬一郎は事業の多角経営へと乗り出す。

日清・日露戦争を経て得られた予想外の発展は、巨額の収益を安川・松本家にもたらした。これを敬一郎は「偶然の天恵不慮の僥倖」と位置づけ、この天恵に報いる形で国家公益に奉仕する。それは八幡製鉄所の誘致や後の安川電機製作所の設立など、今に続く日本の代表的企業の基礎作りとなった。設立した企業の活動を半永久的に永続させることを目的として、敬一郎は学術機関を創立する。それは創立当初明治専門学校(今の九州工業大学)として船出し、現代においても優秀な人材を輩出する学府として知られている。

おわりに

筑豊御三家、幕末から明治・大正にかけて駆け抜けた3人の偉人は、生い立ちや経歴が異なれども、その目的としたことはどこか共通点が多い。

近代化を急ぐ日本にとって当時石炭産業の果たす役割は大きく、その発展は国の行く末を大きく左右する。このため全国から期待の寄せられた筑豊炭田の石炭産業に着目し、その事業を発展させるために死力を尽くした。

その過程で大きな苦難や重圧という壁に立ち向かいながらも、不屈の闘志で初志を貫徹し自らのヤマをプロジェクトとして巨大化させた。ここで得られた大きな資力をもとに、地域の諸産業や教育などへ投資することで、筑豊の地域づくり、人づくりへと貢献した。それは現代の私たちの暮らしに今も大きな役割を果たし続けているのである。

彼らが築いた炭坑は、燃料、エネルギーという側面から日本の近代化を支えた。近くに開発された八幡製鉄所も、筑豊炭田から産出される石炭をもとに操業することとなり、重工業の発展に寄与した。筑豊炭田の石炭は日本の産炭量の過半数を占めるほどのものとなり、その基礎には御三家の彼らが中心となって創り上げた合理的な秩序によってもたらされた。

筑豊御三家が目指したもの、それは明治維新という近代国家を目指す日本の中で、九州の片田舎でしかなかった筑豊地方の発展でもあった。そして、それは今そこに住み暮らす人たちが豊かに暮らすことができている、今の現実なのかもしれない。

今に残る炭坑王の邸宅(リンク集)

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