まつりにみる「筑」と「豊」

日本各地では五穀豊穣やその年一年の無病息災を祈るまつり、もしくは秋の収穫を感謝するまつりが今も盛んである。

祇園や神幸祭と各地でいろいろな呼び名で人々に親しまれている筑豊のまつり、深く見てみると実は興味深い。「筑豊」の「筑」にあたる地域は、飯塚を中心とする嘉飯桂地域と直方、鞍手、宮若による直鞍地域で、この地域で登場する山車は人形を配することが多い。これは博多祇園山笠の影響、旧筑前国を統治した福岡黒田藩の藩政による歴史的環境が大きいとされる。それでは少しだけ細かく見ていこう。

飯塚祇園山笠にみる筑豊の「筑」

「博多の祇園は、飯塚から木屋瀬に来て黒崎で終わる」という言い伝えがある。これは博多から篠栗街道を通って飯塚宿に入り、長崎街道へと行程を変え、木屋瀬、黒崎へと祇園山笠の文化が伝播していったことを物語るという。

飯塚に今も伝わる飯塚祇園山笠は、その起源について諸説あるが、一般的には江戸時代の享保年間とされる。1732(享保17)年に西日本一帯の農作物に病気や害虫が広がり、疫病が流行して多くの死者を出した。そこで全国各地に祇園社を勧請したという記録がある。当時の飯塚も例外ではなかったようで、嚢祖八幡宮にも祇園社を勧請した際に、山笠を奉納したと伝えられことからも裏付けられる。

八代将軍徳川吉宗(暴れん坊将軍のモデル)が享保の改革を断行した変革の時代、疫病や害虫など社会問題が人々に不安を煽り立てていた。泰平の世にありながら人々の生活を脅かす社会問題に対し、何か解決策はないかと思い悩んだ結果、飯塚に祇園山笠が伝わり神への祈りを奉げた。

昭和38年かき手不足により中断、これは筑豊にあまたあった炭坑の相次ぐ閉山とそれにともなう人口流出が影響していた。しかし、地域への思いが結実して10年後に復活し、今に至っている。飯塚山笠の特徴は飾り山にも象徴されるように、武者人形などを象った人形で飾ることにある。先にふれた「博多から飯塚、木屋瀬そして黒崎へ」という祇園山笠の伝播は、筑前黒田藩の藩政のもと人形をあしらった山笠の様式にその事実が伺えるのである。


田川地域の神幸祭にみる筑豊の「豊」

「筑豊」の「豊」にあたる地域は田川地域で、この地域は旧藩で言えば小倉小笠原藩の統治下にあった。このため曵き手の法被や山車の幕などに家紋である「三階菱」を目にすることがある。山車の飾り付けもバレンと幟旗を配するものが顕著で、人形で飾られることがないところも多い。

風治八幡川渡り神幸祭(山笠の垂幕に金の三階菱がみえる)

以上のものは、幟旗を高く組み長いバレンを垂らすことが大きな特徴で、今井祇園山笠(行橋市)などとの共通点がある。これは推測ではあるが、行橋から田川へと至る街道筋によって伝播した山笠の様式ととらえられる可能性がある。また、先述の法被や幕にあしらった「三階菱」から、小倉藩の中にあった藩政の影響も大きかったのではないだろうか。例えば、風治八幡川渡り神幸祭(田川市 福岡県指定無形民俗文化財)や我鹿八幡神幸祭(赤村 村指定無形民俗文化財)などは山笠に人形を飾ることはない。

この一方田川地域でも人形を配する山車はある。それは伊方山笠(赤坂神社神幸祭、白髭神社神幸祭)や糸田祇園山笠など、田川地域でも下田川と呼ばれる地区 では人形をあしらった山車が練り歩くことで知られる。

下田川地区は、彦山川と遠賀川が合流する地点に近い地域。つまり、その昔は水運による生活圏の中にあったために、山笠の様式に影響していると考えられる。これは藩政に左右されることなく、「豊」の国の中に「筑」の国の文化が色濃く残っているユニークなポイント。国境を接するところでは、どちらの国にもみられるいいところや、際立った特徴を「いいとこどり」すすることがみられる。このあたりはなんとも言いようのない、不思議な宿命を感じえない。

以上のようにまつりに見る「筑」と「豊」それぞれの特徴を概観してみた。もともとは別々の国にあり、そしていつしか一つの地域として「筑豊」と呼ばれながらも、それぞれに発展継承されてきたまつりがそのままに今に残る。まつりに見る「筑豊」は実に興味深く、その魅力は奥が深い。

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