筑豊銘菓エピソード

シュガーロードの歴史と筑豊

日本にはじめて砂糖がもたらされたのは約1250年前の奈良時代のこと。といっても、当時の輸入量はごくわずかで、目的も食用としてではなく、ノドの薬として使用されていたという。ポルトガルとの貿易をきっかけにその量は徐々に増えていき、18世紀に入ると、オランダ船や中国船によって盛んに輸入されるようになった。最盛期の頃は、現代の金額にしてざっと約24億円もの、莫大な量の取引が行われていたという。

江戸時代、日本で貿易の拠点となっていた長崎に陸揚げされた砂糖は、「長崎街道」を経て京、大坂、江戸(現在の京都、大阪、東京)へと運ばれていった。このため、比較的砂糖が手に入りやすかった街道筋では、古くから甘い菓子が盛んに作られるようになったという。そんな歴史をもつ長崎街道は、別名「砂糖の道=シュガーロード」とも呼ばれている。

長崎街道(長崎街道シュガーロード協議会より)

その街道の宿場町の一つに飯塚宿が数えられていた。長崎街道は長崎から鳥栖を経て筑後にいたり、冷水峠を越えて筑豊へと続く。現在の国道200号線が縦貫するルートである。飯塚宿は遠賀川流域でも最大規模の宿場町であった。

この飯塚宿は、和菓子作りが今でも盛んな京都と同じ盆地の環境にあり、気温や湿度など細かな点でお菓子作りに適した条件にある。さらに長崎街道という江戸時代唯一の海外貿易が行われたルート上にあるため、カステラや饅頭、丸ボーロなど南蛮渡来と呼ばれた海外のスイーツにふれる機会に恵まれていた。こうした気候的環境と地理的条件が影響して、旧来からの和菓子の文化とも相まって、独特のお菓子文化を創出することになる。

スイーツに目がなかった炭鉱夫たち

明治時代になると筑豊の各地で炭坑が勃興し、炭坑での重労働から甘いものを欲求する心理と、それを活用した贈答品の習慣が生まれ、筑豊独自のお菓子文化が花開いた。例えば、筑豊銘菓の代表格である千鳥饅頭やひよこ、これは飯塚が発祥だが意外と知らない人も多い。他にも山田饅頭や末次羊羹、二瀬饅頭なども飯塚近隣で生まれた銘菓であり、今も人々に親しまれ時としてお土産などにも喜ばれている。

今に続く銘菓は飯塚のみならず、直方市の中心部で生まれた成金饅頭や「もち吉」の愛称で知られるせんべいなども挙げる。特に成金饅頭は、恰幅よく気前のいい川筋気質の大盤振る舞いを象徴するかのように、直径30㎝に及ぶ巨大などら焼きを彷彿させる。見るものを圧倒させるとともに、贈られる側もびっくりのサプライズを生み出す演出となり、その場に華を添える。

黒ダイヤ・白ダイヤ

黒ダイヤ、白ダイヤは筑豊を象徴するかのうような元祖スイーツ

筑豊のイメージは今でも石炭や炭坑という人が多い。その石炭を象徴して創られたのが黒ダイヤ。一方の白ダイヤはというと、これ石炭の産出量に隠れてそれほど脚光を浴びなかった石灰。しかし、石灰、セメント鉱業は筑豊東部、特に田川地域に石灰の産出が恵まれた環境にある。

田川地域の石灰、セメントは、大正時代に遡る。それは香春岳からの石灰採掘で、これは日本ではじめてのベンチカット法(階段状に掘り進め採掘していく方法)によるもの。その昔の香春岳は3つの山頂が連なる異様な山であった。あの五木寛之の「青春の門」にも紹介されていることで知られる香春岳だが、大正時代からの石灰採掘により今は山の半分以上が削平されている。田川を走る貨物列車は「石炭列車」とともに「石灰列車」とも言われたときがあり、それほど多くのニーズに応えてきた産業だったのが石灰鉱業。これをモチーフにして生まれたのが「白ダイヤ」なのだ。

石炭をモチーフにした黒ダイヤは筑豊田川で生まれ、現在は飯塚の老舗で造られている。無骨な形ながら、表面のフィルムによるギラリとした光り、力強いオーラを感じる人もいて未だに根強いファンが多い。木型に流して、こんな形に固めるんだそうで、色は黒糖が使われているため、羊羹と言えど一層奥深い色に仕上げられている。甘さとともにコク深い濃厚な味わいが、誕生当初の炭鉱マンたちの疲れた体を癒したことだろう。

誕生から60年の時を経ても筑豊の人々に愛されて止まないこのスイーツ、その当時は重労働の鉱工業で働く人たちの体を活力源となり、そして今は手土産や贈り物などに活用され筑豊らしさを象徴するスイーツのひとつだ。

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