筑豊は今
福岡県の中央部に位置する筑豊地方、それはかつては遠賀川流域の地域すべてを含めて指す言い方であった。流域周辺では必ずと言ってもいいほど炭坑があり、各炭坑から遠賀川の水流を活用して、河口付近にある若松港へと運ばれ、日本各地や海外へと輸送されていた。つまり、炭坑を基層とした生活圏があった。
その炭坑がエネルギー革命を迎え閉山となると、人々の生活圏は変わり、福岡市と北九州市といった大都市を中心にした生活圏と筑後地方、筑豊地方という生活圏で理解されることが一般的となった。福岡県のホームページなどで確認すると、筑豊地方と呼ばれる地域は、宮若市、直方市、鞍手町、小竹町、飯塚市、桂川町、嘉麻市、田川市、糸田町、川崎町、福智町、香春町、大任町、添田町、赤村といった市町村によって構成されている。
筑豊地方の人口は約430,000人だが、少子高齢社会への加速と都市圏への人口流出によって、人口減少傾向にある。この一方でオリジナリティ高い特色が各地にあり、活き活きと働く人々の姿もある。そんな筑豊地方の今は、飯塚、直方、田川という三つの都市を中心に、個性豊かな生活圏が形成されている。この部分をもう少し掘り下げてみよう。
炭坑王と庶民の文化が息づく街・飯塚
遠賀川は直方市内で嘉麻川と彦山川に分かれて、嘉飯地区と田川地区の流域を潤している。
筑豊地方の中でも福岡都市圏に近い飯塚市は、江戸時代は長崎街道(小倉~長崎間)の宿場町として栄えた。同じ飯塚市にある内野宿とともに筑前六宿のひとつとして知られる。遠賀川を利用した水運と、宿場町と街道を中心とした陸運により、水陸の文化が交わってきた背景がある。
このような背景があって飯塚は、直方や田川とはまた違った、独自の発展をしてきた。それは今に残る文化遺産から伺うことができる。そのひとつとしてあげるべきは、炭坑王たちの邸宅である。
伊藤伝右衛門邸、麻生本家や麻生大浦荘などは、筑豊炭田の隆盛により建設された炭坑王たちの邸宅。いずれも隔絶した規模を誇り、炭坑による恩恵がなければ、このような大邸宅はつくられることがなかった。福岡と筑豊一円に交通の便が良いこともあり、炭坑王たちは飯塚をお膝元としていた。現在でもこのような大邸宅を持つことは庶民の夢であり、その意味では現代人の私達にも夢を与えてくれる。伊藤伝右衛門とゆかりの深い、白蓮の物語もしかりだ。
この一方で庶民が守り抜いてきた文化もある。その代表格が飯塚山笠。
山笠の特徴から、「博多の祇園は、飯塚から木屋瀬(これも筑前六宿のひとつ)に来て、黒崎で終わる」という言い方がある。これは、主要街道(長崎街道)沿いの主要な宿場町に、博多系の山笠が点在していることをあらわしている。「追い山」など博多祇園山笠との共通部分が多いことは、筑豊の「筑」の部分が色濃く受け継がれた様子を物語っている。(詳しくはコチラ⇒まつりにみる「筑」と「豊」)
また、庶民の娯楽としてたのしまれた芝居。それは筑豊でも盛んで、炭坑隆盛期には数多くの芝居小屋や映画館が乱立していた。今はその光景もすっかりと姿を消してしまっているが、この中で嘉穂劇場だけがその光を照らし続けている。
嘉穂劇場は飯塚の庶民の娯楽を象徴する施設。これまでの歴史で、幾度の大きな災害に苛まれながらも今に生きている。このことから、嘉穂劇場を支えている人々の思いが伝わる。存続の危機を乗り越え、今に活かし守り抜いている人々の思いには脱帽である。多くの芝居小屋が消えた今、嘉穂劇場は筑豊の炭坑文化、庶民の文化を象徴するものといっても過言ではない。
また、筑豊に住み暮らす人々のシンボル的な存在である、忠隈のボタ山は別名筑豊富士とも呼ばれ、炭坑なき今も人々に愛され、親しまれている。そこかしこに炭坑が生み残した環境に囲まれ、人情味の厚い人たちが次の世代を築いている。
以上のように炭坑全盛期に富裕層の典型であった炭坑王の生み出した文化と、庶民が数々の苦難の乗り越え、守りえてきた文化が混在する。それが筑豊三都最大の人口規模をもつ飯塚、今は福岡市からの通勤圏として利便性が人気を呼んで、都市圏へのベッドタウンとして認識されている。
商工業が育んだ街:直方
江戸期、直方は旧豊前国田川郡を流れる彦山川と嘉穂郡を流れる遠賀川(嘉麻川)の合流地点に位置するため、水運の拠点となっていた。
江戸期のこうした特徴があったため筑豊炭田が近代化のため脚光を浴びた当初から、直方は筑豊の都市のひとつとしての機能が整備され始める。それは、鉄道の開通(若松~直方間)、金融業の進出(第十七銀行直方支店)などに象徴される。
市街地におけるその面影は、今も多くのこっている。たとえば、奥野医院(現直方谷尾美術館)、江浦医院(江浦医院耳鼻咽喉科)、向野堅一記念館(旧讃井医院)、旧第十七銀行直方支店(現アートスペース谷尾)、木造建築として知られる石川商店、前田園など、明治から大正期の建物があげられる。
また、炭坑関連の実業家が組織した筑豊石炭鉱業組合が、直方に会議所を設置した。知る人も多いと思うが、これは現在「直方石炭記念館」として活用されている。
もうひとつ、直方の都市像において、もう一つクローズアップしたい。
明治になって近代化の礎として筑豊炭田が注目されるようになったのはこれまで何度か話した。その採掘となれば道具が必要となる。そこで勃興しはじめたのが鉄工業。当時の直方町に明治12(1879)年、はじめての鉄工所(加藤政吉の加藤鉄工所)が生まれ、明治20(1887)年には中村鉄工所が創業する。この中村鉄工所の中村清七は、貝島太助の大之浦炭坑の機械監督として勤めた人物。そして、筑豊鉄工業のさきがけとされる。
その後、当時筑豊炭田の中心にある直方に鉄工所が乱立し、一時は直方駅周辺の鉱山機械の専門店が軒を並べた。このような背景があったためか、直方には筑豊工業高校が創立され、人材育成にも余念がなかった。
以上のように、炭坑隆盛期に商工業でにぎわっていたのが筑豊三都の一角直方。炭坑の閉山とともに、すっかりイメージの変わった感のある直方だが、先日商店街の活性化のためのイベント「直方五日市」は、毎月5日に4つの直方商店街でおこなわれる恒例行事として続けられている。これらの母体は、100年以上前から受け継がれている商工業にルーツがある。
炭坑節のふるさと:田川
田川に来るとまずひときわ目を引くのが、巨大な二本の煙突と竪坑櫓。今では周辺を石炭記念公園として整備し、すっかり市民のモニュメントとして定着し親しまれている。
炭坑の閉山後、復旧事業によりほとんどの炭坑施設が解体され、田川の街から炭坑の姿が消えた。けれども旧三井田川鉱業所の二本煙突と竪坑櫓は、惜しまれる声もあり保存され今にある。
旧三井田川鉱業所といえば、筑豊最大の産炭量を誇った炭坑。筑豊炭田は日本でも有数の炭坑であることは言うまでもなく、最盛期には全国の産炭量の半数を占める勢いであった。その筑豊炭田の中で最も産炭量が多かったことは、全国規模でその名を轟かせ、各地からあまたの人を集めた。いわば田川市石炭記念公園は、筑豊炭田の金字塔である。
田川の各街が炭坑を中心に形成され、その筆頭だった旧三井田川鉱業所。過去の歴史を風化させまいと、田川の人々は炭坑文化を受け継いでいる。それは、先ほどの二本煙突と竪坑櫓、そして炭坑節ほか、田川のさまざまなところで目にすることができる。
最近では田川市のマスコットキャラクター「たがたん」が田川の人々にも認知度が広まりつつある。また、「Tanto」というキャッチフレーズのもと、これまであまり知られていなかった炭坑なきあとの「Tanto田川」が見られている。
一方、石炭とともに鉱工業の柱とされたのが石灰で、セメントの原料ほかさまざまな加工品に活用され今に受け継がれている。その象徴の一つが香春岳で、一の岳が山頂から徐々に掘削され今では台形状となった姿が印象的。(⇒白ダイヤ もう一つの鉱石)
以上のように考えれば、筑豊三都のうちでもっとも炭坑文化、そして鉱工業という側面を色濃く残しているのかもしれない。閉山した今も人々の生活に身近に炭坑文化が、根強いのが田川の特徴と理解できる。