希望の唄 河村光陽の世界

「今日はたのしいひな祭り♫」

「か・も・め~の水兵さん、な・ら・ん~だ水兵さん♬」

日本人なら必ずどこかで聞いたことのある、ノスタルジックな旋律の唄。この歌の作曲は、旧赤池町(現福智町)出身の河村光陽(本名直則)という作曲家。この人も筑豊が生んだ功績の高い人物のひとりで、名前こそメジャーではないものの、作品のメロディーはほとんどの日本人が知っている。ここでは、光陽の生誕から作品のオリジナリティ、そして光陽が生きた時代背景からみたメッセージにふれてみたい。

陶芸の里、上野に生まれた光陽の足跡

河村光陽肖像

明治30(1897)年、焼き物の里旧赤池村上野の地に誕生した河村直則は、幼少の頃から福智下宮神社から聞こえる楽に親しみつつ成長した。小倉師範学校を卒業した19歳の時、旧制金田小学校の教諭となりますが、26歳の頃東京音楽学校(のちの東京藝術大学)に学び、夢を諦めずにプロの作曲家を目指します。

東京音楽学校では藤井清水(ふじいきよみ 山田耕作に師事し、日本民謡の収集と研究に尽力)し、昭和2(1927)年に修了後再び小学校教師となる。その傍ら児童への音楽指導と作曲活動を経ながら、ついに昭和11(1936)年キングレコードから専属作曲家となった。

これを機にヒット曲「うれしいひなまつり」「かもめの水兵さん」などをはじめ、1000あまりの曲を生み出した。それはシンプルかつ覚えやすい旋律と、スキップするかのうようなリズミカルなテンポや流れるようなメロディとなって、人々の心に印象づけている。

歌に込められたメッセージ

光陽自筆の譜面

近代日本民謡の父ともいうべきその功績は、まさに郷土の至宝というべきもの。その価値は光陽が生きた時代、なぜこのような民謡を数多く生み出し、人々を感動へといざなったか、光陽のその真意に迫ることではっきりとしてくる。

青年期の光陽が生きた時代は、いわゆる「大正デモクラシー」という政治、思想をはじめとして、民衆が大きく躍起した時代。それは文化の面にも大きな影響を与え、大衆文化が大きく華やいだ。こうした世相を背景に、光陽は日本の伝統的芸能である民謡をもって、日本文化の良さを再認識し、再興を期した。

そして、じわりじわりと迫りくる国際情勢の不安定化と予期される戦争に対し、暗くなっていく時代を憂いながらも、民謡を通して人々に希望と光を与えるために精力的に創作活動に従事した。そんな光陽の願いが、一曲一曲に込められている。

大戦が終わった昭和21(1946)年12月24日、49歳という短い生涯を閉じた光陽は、自分の役目が終わったかのようにこの世を去った。子どもたちが民謡を楽しそうに口ずさみながら、遊んでいる風景を想念してやまなかった光陽の作品は、子どもたちこそこの世の宝、その子どもたちの心曇らすような世の中を大人たちが創ってはいけないという大きなメッセージに富んでいる。

戦前の激動の時代にあって、食糧難、兵役による家族の分断、止むことのない殺戮、そんな時代にNOを突き付けるように光陽は童謡を作り、唄を通して人々に平和への希望の光を届けたかったのではないだろうか。

光陽の思いとその作品から、現代の私たちも見習うべきところが多い。凄惨な事件がまだまだ絶えない現代、大人たちも自分の在り方を光陽の作品を通して見直してみるべきではないか。

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