国道200号線の堤防沿い、嘉穂から直方に至るこの道筋は「竹屋根」と称され、道の両側には小さい竹藪が生い茂っていた。
人々はこれを切り開いて家並にし、「小竹の処」と呼んでいた。これが小竹町名の起こりになったという。
ここでは筑豊地方のど真ん中にあたる小竹町の地名に秘められた話にふれてみたい。
竹屋根騒動
この竹藪にまつわる竹屋根騒動の話が伝わっている。
江戸時代の正徳三年(1713)五月十日、薩摩藩士内田忠右衛門と海江田次郎兵衛の両名が御用金を馬に積んで江戸に上がる途中のことであった。
急ぎの公用であったので夜中に飯塚宿を発って長崎街道を進み、小竹宿を過ぎ南良津の赤地渡しの近くまで来たとき、土手の竹藪に隠れて待ち受けていた盗賊博多甚平、長崎三郎、肥後坊主、鍋半右衛門、中国弥右衛門と名乗る五人組が襲いかかり御用金を強奪しようとした。
忠右衛門は手傷を負いながらも首領を切り倒し、残る四人と切り合っていた。そのとき同僚の次郎兵衛は、矢庭に馬と人夫を引き立て川の中に飛び込んで木屋瀬宿の方に逃げ出し御用金を守った。
忠右衛門はさらに長崎三郎と鍋半右衛門を切り倒したが、残る二人が逃げ去ったので深手を負いながらも直方城下の尾崎口御門にたどりつき、救援を頼んだが門内からはなんの応答もなかったために、小竹の庄屋方まで戻って手当を受け、無事帰国することができた。
博多甚平ら三人は捕らえられて斬首のうえ、池の側で首となった(その場所は獄門池と呼ばれ旧役場付近にあった)。
御用金を守った次郎兵衛は、忠右衛門が「逃げたのではなく先に行くように命じたのだ」と藩に申し出たが開き入れられず切腹を命じられた。次郎兵衛は自らの卑怯を恥じて切腹したという(『小竹町史」)。
騒動のあとの小竹町
忠右衛門は勝野村小竹の龍徳屋兵五郎方で手篤く介護され、無事に帰国した。
薩摩藩はこれを吉例として、小竹を参勤交代の休憩所と定めた。のち佐賀藩もこれにならい、小竹の町が正式な宿場の間にある「間の宿(あいのしゅく)」として発展する契機となった。
幕末の頃には、小竹では盛んに石炭が採掘された。嘉永七(1854)年、福岡藩から御徳村の山元・守田半右衛門に薩摩藩領内の石炭探索の命が下り、一行八名は薩摩領各地を探索した。
当時の福岡藩主は島津家出身であり、長藪騒動ののち、小竹は江戸往来の薩摩藩士の常宿であった。このため、小竹の者が石炭に精通していることを薩摩側もよく知ってのことだったのだろう。
幕末期における採炭の評判が、次の時代の明治期に、海軍の予備炭田として御徳炭鉱に指定されたことへ発展した。
炭鉱なき今
小竹町でも炭鉱が与えた影響は大きく、これにあやかってのモノが生み出されている。
例えばKETAKOバーガー
小竹町商工会女性部の人々のアイディアによって生まれた、新しい小竹町の特産品。竹炭を混ぜ込んだパンは、色がなんとも印象的。
しかし、これには訳ありなようで、単に炭鉱の黒いイメージにあやかってだけではない。竹炭がもつデトックス効果が食する人の代謝を促進させるねらいがあるという。
もう一つ、竹炭焙煎の直火コーヒーもユニーク
竹林整備や間伐などで発生した竹を竹炭にしてから、火力の高い焙煎で煎れたコーヒーという。
「小竹の処」は昔からの歴史にちなみ、今人々をおもてなししているようだ。
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