多賀町公園に秘められたストーリー 筑豊の炭鉱王貝島太助と森鴎外

Blog 筑豊見聞録

街中には私たちの知らない意外な話が秘められていることが多い。

今回紹介する直方市の多賀町公園もその一つ。

商店街から歩いてほどないこの地にどんな過去があるのだろうか。知ることで身近に思えてくる不思議な直方のストーリーを紹介したい。

多賀町公園

直方市の多賀神社は地元の氏神様として信仰を集めている。その境内から歩いて5分程度殿町商店街の方へ行くと、商店、宅地が並ぶ中にぽっかりと開いたように公園がある。

これが多賀町公園で、公園としてはそれほどの大きさではないが、オアシスのように周辺住民の憩いのばとなっている。

面積は約1,600㎡で、四方が40mのほぼ正方形をした敷地の中に、子ども用の遊具、ベンチ、トイレが備え付けれた、特に変哲もないどこにでもあるような公園だ。

しかし、その敷地の中に際立って目立つ銅像と石碑の存在に気づく。それが貝島太助銅像と貝島邸跡と示しながらも森鴎外(碑文中には森林太郎とある)が訪れたと記す石碑だ。

貝島太助の邸宅跡

筑豊御三家と称され未だに語り継がれる炭鉱王たちの中で、筆頭といっても過言ではないのが貝島太助だろう。

幕末に生まれた彼は、明治という新しい時代の中で炭鉱の将来性に着目し、自ら坑内に入り採炭した。筑豊地方の炭坑勃興期に各地の炭坑を周り、そこで親分、頭領として多くの坑夫たちに慕われる中で、自らの事業を立ち上げる。

幾度の事業破綻を経験しながらも、1885(明治18)年現在の宮若市に位置する大之浦炭坑を事業として創業させた。のちの貝島鉱業株式会社の母体となり、筑豊炭田の主要産炭地に数えられるようになった。

御三家の中でも炭坑社会の地場から這い上がるかのような経歴を持つのは、貝島太助のみでその功績もまた大きい。

母の孝養のために建てたと言われる旧邸宅は、1889(明治22)年、数万金(現在の日本円にして数千万円)かけた三階建で、1891年(明治24)に前農商務大臣井上馨が訪れ、深く長い結びつきが出来た。井上馨は明治維新期の志士の一人、長州藩出身、元老として政界、そして近代化する日本に貢献した人物。

陸軍士官森鴎外の小倉日記

1900(明治33)年に文豪森鴎外 (小倉十二師団軍医部長) が三泊し、 「…五十歳許りの偉丈夫なり」と日記に記した記念碑が建っている。

森鴎外は小倉城に司令部があった陸軍第12師団の軍医部長を1899年(明治32)6月から1902年(明治35)3月まで勤めていた。

彼は、1900年(明治33)10月に衛生隊演習の中途、貝島邸に三泊しているという。貝島邸での止宿には好印象だったようだが、一方で直方では歯痒い思いもしたと伝わる。

徴兵検査の視察で直方駅から福丸(旧若宮町の中心地)に向かうため、駅前で人力車を雇おうとすると、車夫全員から、病気だとか予約があるとか言われて断わられた。

茶店の主人の助力もあり、ようやく乗車出来たのもつかの間、2キロほど行くと、少し行けば人力車の客待ち場があるから、ここで降りてくれと言われる。

それでも進ませると、車夫は客待ち場で停車してお茶などを飲みだす始末で、そもそもやる気がないのがあらわな様子となった。

彼は名刺を渡し、自分は福丸までの約束で乗車したのだから、金は払わないと言って、歩いて福丸へ向かう。

当日は雨降りで、ぬかるんだ田舎道を距離にして10キロほど歩かされてしまう始末。帰路は、巡査に人力車を掴まえさせてまでのこと。

そして後で、車夫たちが乗車拒否した理由を知ります。炭坑主が乗れば車代をたくさんくれるのに、官吏じゃたかがしれている、そんな仕事はやってられない、と。

現在の東京大学医学部にあたる医学校の予科に、年齢をごまかして11歳で入学したという秀才は、この「事件」がよほど腹に据えかねたとみえ、福岡日日新聞に『我をして九州の富人たらしめば』を寄稿しているほど。

文豪と言えで一人の人間として、興味深い側面がみられる。

当時の直方駅は現在地よりやや南、ちょうど御館橋(おたてばし)のあたりで、貝島邸の近く。

この地にこのような縁があったとは今では考えられないかもしれない。

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