侘び寂びの世界からものづくり、芸術へ 古上野焼

ふるさと筑豊の歴史

窯跡からみる古上野焼の世界

400年前に窯開きした上野焼、そのもっとも古いものと言われるもののなかから、当時の侘び寂び、茶道へと人々が馳せた思いにふれてみたいと思います。初期の頃の上野焼から今に受け継がれる伝統と、この頃にしか見られないところを感じてくれれば幸いです。

400年前、そこにはどんな世界が

釜ノ口窯(田川郡福智町)

細川忠興が小倉城入城の慶長七(1602)年に開窯したと伝わります。そして、寛永九(1632)年に細川忠利が肥後移封(藩の移転)することをきっかけに閉鎖されました。

窯構造は、焼成室十五、胴木間一、煙道一の全長41m。傾斜角約20度の、有段式割竹形登窯。一部屋毎の径、奥行、高さが不均一なことから、継ぎ足しを繰り返した窯と報告がされています。

上野焼の基礎をつくり、本流としての活動が成された窯。発掘調査からは以下のような焼き物の数々が出土しました。

今でも緑釉を印象的に表現する上野焼のスタイルは、初期の頃からみられます。

この緑釉、銅を原料として専門的には「上野緑釉」とも言われます。上野の里から近い採銅所(今の香春町)から産出されていたため、地域の強みを活かし陶器に華を飾るのには最適だったのかもしれませんね。

菜園場窯(北九州市)

菜園場窯跡(引用元:川の一日
菜園場窯跡(引用元:川の一日

窯構造は、焚口一、焼成室四の地上式割竹形窯。全長十六・六mで、傾斜角約二十二度を測る国内最大級の窯跡といわれます。

出土遺物が少なく、全体像を把握しにくいが、釜ノ口窯より先行した窯とは今のところ考えられていません。

釜ノ口窯の操業が軌道に乗った後、藩主忠興公をはじめ家老や茶の湯を嗜好とする人々に提供する利便性を高めるため、殿様のお膝元で操業したものと考えられています。

ちなみにこの窯跡、福岡県の指定文化財(考古資料)となっています。

また、ここは平安時代にも焼き物を焼いた窯跡があった場所としての痕跡があります。古くから陶土のための良質な土がある場所としても知られていたようです。

岩屋高麗窯(田川郡福智町)

窯構造は、未調査につき不明なところが多いのがこの窯跡。その開始は、慶長七(1607)年頃か、とも言われています。

関ヶ原合戦終結しその結果、全国の大名の改易、移封、転封といった配置代えも終わり、天下泰平へ。そして地方にあっては、内外政共に平穏を取り戻した頃となっていました。

細川四十万石(その領国は、現在の北九州市、田川、京築地方まで)の需要を満たすには、釜ノ口窯の生産能力では間に合わなかったのでしょう。釜ノ口案開始から五年を経ての築窯ではないかと考えられています。

そのことは製品に反映し、内ヶ磯窯特有の縁なぶりの小皿が量産されているし、共土を利用しての小皿の重ね焼も確認されたそうです。

この窯跡は、細川忠利が肥後移封なった寛永九(1632)年ごろに閉鎖されたとも言われ、その間同じ福智山系にあった高取焼の内ヶ磯窯が、寛永元(1624)年に閉鎖されました。このとき一部陶工は、上野の里に移住し、岩屋高麗窯での製胸に携わっていたものとみられます。

釜ノ口窯の厳しい均整美とは反し、自由奔放な手仕事が伺い知れ、民需的要素の作調を温存する。

皿山本窯(田川郡福智町)

窯構造は未調査につき不明ですが、その開始は岩屋高麗窯同様に明確ではないものの、寛永元(1624)年から同二(1625)にかけての頃と推測されています。

隣接する高取系内ヶ磯窯の閉鎖で、一部の陶芸家の釜ノ口と岩屋高麗窯への移動によるものと考えられています。釜ノ口窯だけでは抱えきれない陶芸家及び家族をはじめ人口が増えた事も考えられます。

そして、釜ノ口窯の操業及び経営が順調に運んでいる時期であったのも要因となり、皿山本窯があらたに開らかれたとみられます。

その後、寛永九(1632)年に細川忠利肥後へ移封後、明石より小笠原忠政が小倉藩主となりました。これより上野焼は小笠原候十代にわたる庇護を受け、明治四(1871)年の廃藩置県まで藩窯としての使命を担っていたのでしょう。

皿山窯が開いた事でそれまでの侘び寂びを抽象するかのような、重厚な趣きとは別にさまざまな様式美に満ちた作陶がおこなわれたようです。

タイトルとURLをコピーしました