風雲!岩石(がんじゃく)城

Blog 筑豊見聞録

彦山川上流、添田町と赤村の境にそびえる岩石山(標高454m)山頂を中心に、全長500mにも及ぶ巨大な城郭・岩石城があります。(がんじゃくと読める人は珍しいかも⁉︎)

ここでは豊前一の堅城ともいわれた山城の歴史を、ちょっとだけ詳しくみてみましょう。

山頂をとりまく曲輪、巨岩による天然の要害

添田町まちづくり課編『岩石者(がんじゃくもん)』より

添田町側の添田公園から登山道を登っていくと、白山宮(奥の院)に辿り着き、ここからが城の内部となる。いくつもの曲輪が展開した上、数メートルはあろう大きな巨石があちこちにあり、天然の要害を堅牢なものとしています。

その曲輪群を越えてさらに進むと、道の脇に岩盤をくり抜いた痕跡をいくつも見ることができる。かつては柱を立てた塀のような構造物があったことを思わせます。

そして山頂一帯が城の中心、主郭(または本丸)

主郭(天守台と呼ばれる高台、縄張り図の①)

築城と争乱の歴史

天守台と呼ばれる主郭には展望台もあり

岩石城は平安時代、平清盛が築城したという言い伝えがあります。保元二(1157)年、清盛が太宰府の長官として赴任した頃、家臣の大庭景親という武将に築城を命じたそうです。

平安時代末期、平氏、源氏を中心に武士が存在感を高めました。その一方で旧来からの寺社も自らの利権を守るために、自主防衛、武装化していました。

それは、僧兵という言葉で、日本史の教科書にも登場します。時として強訴という、自分たちの要求を朝廷側に突き付けた事実もあります。(強訴Wikipedia

英彦山も同様、朝廷や地方官衙への圧力を高めていた可能性は高く、清盛はこれに対する警戒、監視のため築城したものとみられます。

この当時の城郭規模はよくわかっていません。ひょっとしたら物見櫓や狼煙台程度のものしか整備されていなかったかもしれません。

ただし、山頂からは田川地域の平野部を一望にすることができます。さらに遠くは嘉飯地域との境界である船尾山、金国山なども見渡せる好条件にあります。

田川地域を一望できる主郭

そして英彦山には目と鼻の先のように、様子を伺うことができるため、警戒や監視には最適な場所であることは間違いないと思われます。

豊前一の堅城、一日で落城

岩石城縄張り図(木島孝之氏作図)

現在の姿を形作ったのは戦国時代末期、筑前の秋月氏の筑豊方面の拠点的な出城として利用された時以降と言われてます。

戦国末期、天正十五(1587)年、島津方となっていた秋月氏は、ここ岩石城にて豊臣秀吉の大軍を迎え撃つことになります。

守る兵力は、秋月種実の家臣・飽田悪六兵衛と熊井越中守久重ら三千人を数え、この当時の秋月氏の出城としては最大規模の防衛体制だったといいます。

しかし、豊臣軍は20万とも、30万とも豪語する大軍を編成して、たった一日の攻撃により落城しました。これに驚愕した秋月種実は益富城(嘉麻市)を捨てて古処山へと退いて、島津方の援軍を要請したとも言われます。

その後、小倉城に入った毛利勝信(森吉成)、豊前中津城に入った細川忠興によって支城に取り立てられ、さらなる改修が加えられたと見られます。

山頂部の主郭周囲には石材が多く散乱しており、また一部には石垣も残されており、当時の面影が偲ばれます。

主郭周辺に残る石垣
本丸跡
柱穴

主郭に入る所は内枡形の虎口となっており、これらの遺構は細川氏時代に、織豊系城郭の築城技術(安土桃山時代に流行した築城法)によって構築されたと考えられています。

曲輪は総石垣で固められ、その上には瓦葺きの塀・櫓が建てられていた。そして城の東側には大規模な堀切や井戸など、山城としては比較的わかりやすいと思います。

小倉藩の初代藩主となった細川忠興の言葉に、「100人兵を置けば、10万の兵も防げる」とあるように、江戸幕府開府となった後も不穏な状況において、領域の防衛拠点として期待されたのでしょう。

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