「鉱山探索者」とも称される鞍手町の山尾浩三さん(38)は、奇特な人である。あくまでも趣味で、これまでに訪れた全国の鉱山跡地や遺構は700カ所余り。写真を撮り、地元のおじいちゃんやおばあちゃんに話を聴く「鉱山や炭鉱のことを語り継いでいってほしい」という声に背中を押され、希望者があれば無料で案内も引き受ける。そんな山尾さんと一緒に、かつての筑豊炭田の名残を求めて鞍手町や遠賀町を巡った。(木下良弘)
山尾さんが炭鉱に関心を持ったのは20代の終わりごろ。心臓の手術を受け、リハビリ中に図書館で土門拳さんの写真集「筑豊のこどもたち」などを見たのがきっかけだった。
以来、休みを利用してバイクにテントや寝袋を積み、野宿もしながら北は福島県から南は鹿児島県まで各地の鉱山跡の探索を続けた。
昨年2月、北九州市八幡西区から鞍手町に転居したのも「かつての町の長屋に住みたい」という理由からだった。念願がかない築8年の長屋に住む。
「鞍手町は同じく石炭で栄えた川市や飯塚市などより炭鉱関連のものがよく残っている」という山尾さん。
最初に案内してくれたのが同町中山地区に残る三菱新入炭鉱の巻き上げ機の台座。住宅地を見下ろす高台の道路沿いに長さ4m、高さ1.5mほどもあるコンクリートの塊が鎮座していた。ひびが入り、鉄筋もむき出しになった遺物は、筑豊のすべての炭鉱が閉山して40年余りという長い年月をうかがわせる。
「中山交番前」信号近くには、町が1966年に建立した「燃石碑」がある。碑文は「筑豊文化は石炭文化にして本町の文化もまた三菱新入鉱業所の発展と共に向上せり」と高らかに企業城下町の歴史をうたっている。
碑のそはの町給食センターには、かつて洋画中心の映画館があり、隣接した公園敷地には飛び込み台付きのプールがあったという。山屋さんが持参した当時の写真と現状を見比べると「栄華の跡」の感慨もわいてくる。
「自転車も押して歩かないと通れないほどのにぎわいだったと聞いている」と山尾さんがいう本町通りも今は人影もなく、かつての購買所は駐車場に姿を変えている。
近くにあった共同浴場の建物はトタンぶきの屋根などに歴史を感じさせながら、建設会社の倉庫として現役で頑張っていた。民家の石垣にも内から掘り出された、ぼたが結構使われているらしい。
中山地区から北の古門地区へと車で向かう。遠賀町との境界を挟んだ一帯に三菱新入炭鉱の鞍手鉱があったが、資料が少ないという。山尾さんは車中で「あそこにダンスホールや映画館があった。そこの酒屋さんは最近まで営業していた」と細かく説明してくれる。
車を止めたグラウンドの東側にうっそうとした森があり、その一角に目指すものがあった。谷を通るように高さ6、7mの土塁が築かれており、レンガ造りのアーチ形の入り口がしっかり残っていた。入り口から入ると、かつては炭鉱の火薬庫があったらしい。住宅地から近いにもかかわらず、雑木に囲まれ、セミの鳴き声の中で、炭鉱の遺構はひっそりと眠る。
「山の中で、当時のことなどを1人で空想することもある」と山尾さん。最近は遺構巡りは二の次で、「今しかない」と地元の高齢者らからしっくり話を聴くことも増えた。 4、5年前から「鶴嘴さんのブログ」を始め、若者も関心を寄せているという。
(西日本新聞2017年8月15日付朝刊筑豊版より)
私達筑豊に住む中では、「当たり前」とか、「何の変哲もないガラクタ」とか、そんな言い方で片付けられそうな炭坑関連の遺構。
この一方で筑豊以外に暮らす人々にとっては、「当たり前」ではないから、むしろ魅力を感じる。そんな喜ばしい、筑豊に暮らす私達も見習うべき記事(西日本新聞2017年8月15日付朝刊筑豊版より)がありました。
山尾浩三さん、日本全国の鉱山関係遺構を探索し、その魅力を伝えている。時には無料で希望者に案内しているとか…お若いのに脱帽ですm(_ _)m
終戦から72年、過去の出来事が風化しつつあると、戦争体験を語り継ぐ語り部も少なくなったと危惧されるように、筑豊炭田の各炭坑が閉山してから約50年経ち、当時のエピソードを知る人々も少なくなり、炭坑の歴史や文化も風化しつつあると危惧される声もあります。
そんな中、若い、炭坑を体験していない世代が有志で活動する。しかも、山尾さんは北九州市から鞍手町に移住してまで、炭坑関連の遺構に惹かれ、それを広めようとしている。
この事からも、ふるさと筑豊の歴史と文化を物語る炭坑関連の遺産は、秘められた魅力に満ちている。私達はあらためて、この事を学ぶべきではないでしょうか?
私達筑豊に住む中では、「当たり前」とか、「何の変哲もないガラクタ」とか、そんな言い方で片付けられそうな炭坑関連の遺構。
この一方で筑豊以外に暮らす人々にとっては、「当たり前」ではないから、むしろ魅力を感じる。そんな喜ばしい、筑豊に暮らす私達も見習うべき記事がありました。
山尾浩三さん、日本全国の鉱山関係遺構を探索し、その魅力を伝えている。時には無料で希望者に案内しているとか…お若いのに脱帽ですm(_ _)m
終戦から72年、過去の出来事が風化しつつあると、戦争体験を語り継ぐ語り部も少なくなったと危惧されるように、筑豊炭田の各炭坑が閉山してから約50年経ち、当時のエピソードを知る人々も少なくなり、炭坑の歴史や文化も風化しつつあると危惧される声もあります。
そんな中、若い、炭坑を体験していない世代が有志で活動する。しかも、山尾さんは北九州市から鞍手町に移住してまで、炭坑関連の遺構に惹かれ、それを広めようとしている。
この事からも、ふるさと筑豊の歴史と文化を物語る炭坑関連の遺産は、秘められた魅力に満ちている。私達はあらためて、この事を学ぶべきではないでしょうか?
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