雪舟悟りの境地 筑豊で造った庭園に込められたメッセージ

Blog 筑豊見聞録
魚楽園(川崎町)

現代に生きる私たちは何かと忙しく、日々厳しい現実との闘いのようにも感じられてしまう。生きていくということは、時として楽しく、時として煩わしくも感じたり、涙する時ですらある。それゆえ、人々はどこかで癒しを求めてさまよう。

ここで紹介する庭園の数々は、室町時代の禅僧として中学・高校の日本史の教科書には必ずといってもいいくらい登場する人物、雪舟が造園したというもの。福岡の山間にあるこの筑豊に、いくつかの庭園を自ら造営、もしくは設計したという。

雪舟が造った庭園、まずは雪舟という人物像にふれ、九州の地、しかもここ筑豊地方で造園創作をおこなったのかを知り、そこから何を感じ取れるのかに迫ってみたい。

雪舟、その人物像とは?

雪舟肖像画(出典:Wikipediaより)

室町時代の禅僧、水墨画の大成した雪舟は、現在の山口県総社市に生まれた。生まれ年のについては諸説があり定かでないが、世は応仁の乱を皮切りとして殺伐とした戦国時代へと移り変わろうとする時期であった。

京都に移り、当時室町幕府という武家政権と深い関わりのあった禅宗の高僧と交流をもち、後に中国へ渡り画法を習得。

それをもとに作画した「秋冬山水図」をはじめとする数々の作品は、国宝6点ほか多くの重要文化財がある。彼が大成したと言われる水墨画の技法は、日本美術史の中でも画期的なものとされ、のちの江戸時代、尾形光琳も雪舟の作品を繰り返し模したという。

天橋立図(国宝:京都国立博物館所蔵)
秋冬山水図(国宝:東京国立博物館所蔵)

日本での評価以上に海外からの評価が高い画家としても注目され、アメリカのメトロポリタン美術館には雪舟の作品が常設展示されているほど。

聞いたことのある人も多いでしょうが、以下のエピソードは有名。

絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱にしばりつけてしまいました。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。

京都国立博物館より

幼い頃から非凡さを象徴するエピソードとして知られ、かつ11歳の時に京都五山(現代的に言えば、国立大学のトップ5とでも言えるでしょう)の一角である相国寺に入り修行を積んだことも考えれば、抜きんでた才能をもつ若い男子像が浮かんでくる。

その非凡な才覚は人々からの支援につながり、応仁の乱が勃発した1467年、戦乱を避けるかのように遣明船で中国へと渡海した。中国各地を巡りながら、水墨画の技法を学び2年間の遊学の末帰国した。

「風景こそ最大の師」という雪舟自身の言葉が残っているが、中国での遊学は当地の水墨画家の模写と中国特有の自然美を徹底的に描写することに明け暮れていたようだ。それほどの才覚をもっていた雪舟という人物、なぜ筑豊にゆかりがあったのだろうか。

水墨画の世界から庭の創造へ

帰国後の雪舟は、九州、山口地方へと赴き、諸国で創作活動をおこなった。雪舟作の庭園として挙げられている事例をみると、京都1、山口16、福岡9、大分7、島根4、広島3という報告がある(白石直典 2000 『雪舟の庭』西日本新聞社刊)。

京都が争乱の舞台になっていたこともあり、雪舟は山口の守護大名大内氏を身を寄せたことをはじめ、九州にも各地へ足を運び、様々な人々と交流しているようである。

江戸時代の寛永期に書かれた『画師的伝宗派図』という文献がある(博多崇福寺住職江月宗玩著)。それには、雪舟の直弟子10名の名があり、その中に英彦山実円坊の等琳という人物が挙げられている。

戦乱とは遠く離れた霊峰は、雪舟にとって絶好の創作の場でもあったようで、直弟子の勧めで英彦山の地に身を寄せたのはかなり可能性のあるものとみられる。

そこで雪舟が造ったと言われる庭園は、英彦山周辺だけで60以上あると言われている。そのうちの代表的なものを以下に挙げよう。

旧亀石坊庭園

旧亀石坊庭園は、昭和三(1928)年旧亀石坊庭園が国指定史跡となって以来、筑豊ではながらく話題になることが少なかった雪舟の庭園。

しかし、こちらの庭園は、雪舟自身の作によるものではと考える研究者もいるほど、その価値が高く評価されている。

貞享元(1684)年六月二十九日、俳人大淀三千風が英彦山に登り亀石坊にたどり着いた時の記述がある。

宿坊亀石の坊一羽亭の庭は、雪舟の作、即興の一紙変ぜざる所より見れば、物と吾と盡ることなし、只虚無の真人を師範とたのみ、乾笠坤鞋にまかせ、光陰を根とし、雲の曙波の夕ぐれ、鳥に案内をさせ、兎に舎をからしむ、幸ひ此山此花泉は、無為の閑道者雪舟和尚の手づま、山虎竜泉の形相をたたみ置かれし、げにと彼の雪翁は畫工得富が跡を追ひ元章先生が手端を心とし、かつ天性通肺の道徳しなれば、箇々緑生の水木に同気し、朝たには、雲門の焼餅に腹を肥し、夕べには趙州の赤大根の辛にて眉をしかめ、三年この菴の柏樹下に被をかぶられし、いとうらやましかりし。

古来夏なし雪舟かた身の禦風、 先ず庭もせに蝉時雨打、主亀石坊一羽軒、

この記は、雪舟の没年から約百八十年後に書かれたもので、この頃すでに雪舟がこの山に三年間滞在したという伝承があったことがわかる。どこから三年が出たのか不明であるが、雪舟がここで庭を作っていたという推定がなされている。

藤岡大拙は、常栄寺 (山口市)、旧亀石坊 (福岡県英彦山)、萬福寺 (益田市)、医光寺 (益田市)についてはほぼ雪舟の作庭であろうとみている。

また、重森三玲も旧亀石坊の庭は常栄寺の庭と手法が酷似しているので、伝承を問題とするまでもなく雪舟の作庭と信じられると述べている。

同じ筑豊田川地域の川崎町では、藤江氏魚楽園がライトアップをはじめ、庭園の景観とマッチしたユニークな取り組みがなされ、脚光をあびている。

こちらも同じように雪舟によって造られた庭園(あるいは他の誰かが雪舟に習い造った?この辺りは定かではない)で、老若男女を問わず観覧の人の足が絶えない。

ちょっとした人気スポットとして定着し、文化遺産を活用し再び活気を取り戻した好例として評価も高い。

この一方で、英彦山周辺にも同様な庭園が多数存在しているにも関わらず、認知度が低い感がある(忘れられたと言ってもいいかもしれない)。

そんな折、旧亀石坊庭園に加え、英彦山周辺に確認された庭園が、あらたに国の宝、文化遺産として認められた。一時期新聞等により報道されたが、まだ広く知られていないことは、残念である。

このことにふれてもらいたいため、次に英彦山庭園群についてお話ししたい。

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