筑豊といえば真っ先に思い起こすものが、炭坑もしくは炭坑節。閉山後もそのイメージは大きく変わることなく、今に受け継がれる。
国家プロジェクトとして、または財閥などが中心となって推し進めた殖産興業の一環として、明治から戦前にかけて大規模な開発が筑豊ではおこなわれた。このため石炭鉱業や石灰採掘に関連するものが筑豊にはまだまだ残る。
これらの中には、赤レンガでもって、明治期の様式美をそのまま表出したものもある。それは今でも赤レンガの煌きとなって、私たちに語りかけてくれる。
旧三井田川鉱業所第一・第二煙突(田川市)
筑豊炭田の象徴として君臨するかのように、二本の巨大な煙突が田川市にある。旧三井田川鉱業所の第一・第二煙突は、竪坑櫓とともに現在石炭記念公園の一角に保存されている。これらは文化庁の登録文化財として、また、経産省認定の近代化産業遺産とされた文化遺産である。
この二つの煙突は明治四十一(1908)年、竪坑昇降機のボイラー排煙用に造られ、高さ45mを測る。20万枚を越える煉瓦によって造られた二本の煙突は、基壇部を中心に明治期に流行した様式美にあふれている。
旧三菱飯塚炭礦巻揚機台座(飯塚市)
また、飯塚市には筑豊最大とされる巻上機の台座がある。それは旧三菱飯塚炭礦のもので、飯塚市の平恒の県道沿いにひっそりとたたずむ。
大正時代に作られたこの二つの台座は、竪坑ではなく斜坑用につくられ、石炭運搬や人車の上げ下げに活躍したもの。現在飯塚市の指定文化財、また経産省認定近代化産業遺産として親しまれている。
旧三菱方城炭礦建築物群(現日立マクセル株式会社)
もう一つ、赤レンガの煌きがある。それは田川郡福智町の日立マクセル工場内にある旧三菱方城炭礦の施設群。赤レンガの建物は、旧坑務工作室、機会工作室、圧気室、坑内風呂の4つがあり、見学には事前の許可がいる。なお旧坑務工作室は国登録文化財となり、現在「日立マクセル赤煉瓦記念館」として活用され、炭坑時代から現代までの移り変わりなどにふれることができる。
明治期の後半は、日本の産業革命の成熟期とされ、重工業の発展が著しかった。その代表格をあげれば、八幡製鉄所の創業(明治34年:1901年)がある。製鉄には大量の水と火力が必要となる。八幡製鉄所の経営と発展を支えていたのが筑豊炭田であり、またその石炭運送のために整備されたのが鉄道網である。
明治期の前半には主に軍艦の燃料として活用されることの多かったものが、八幡製鉄所の創業によりさらなる増産をもとめられるようになった。
このニーズに応えるようにして生まれたのが、旧三井田川鉱業所の竪坑櫓と第一・二煙突。斜坑による採炭に加え、数百mをこえる深部からの採炭をもくろんだ。また、財閥三井、三菱などによる大手資本の介入によって、飯塚と方城に各種炭坑施設を作り生産体制の拡充をはかった。
日本の産業革命を、地底から支えていた筑豊の歴史を象徴するのが先の赤煉瓦の建物、構造物。その役目を終えた今でも、明治期の様式美と煌きを放っている。
なお、炭坑節の「・・あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん、煙たかろ・・」のフレーズは、ここ筑豊がふるさと。今では九州を代表する民謡として親しまれている。
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