知られざる名城 益富城

Blog 筑豊見聞録

嘉麻市にある城郭、益富城は豊臣秀吉が九州に遠征してきた際に攻城戦がおこなわれた場所として知られています。このお城、私たちが知るよりはるかに大規模な城郭だったことが最近わかりました。この項では益富城の知られざる実像に迫ってみましょう。

戦国末期、福岡の最大勢力その拠点

天正一三(1585)年、筑前・豊前国のうち最も大きな領域を治めていたのが秋月種実という武将でした。その種実は子の種長に家督と本拠地であった古処山城を譲ります。

そして、自らは益富城に移り、さらに領域拡大を目指していたといわれます。

もともとは永享年間(1429〜1441年)に、山口を中心に大きな勢力を保持した守護大名、大内盛見(おおうちもりはる)がこの地に城を築いたことに始まります。

積極的な版図拡大を目論む種実は、益富城を大規模なものにしつつ、北をにらんでいたようでした。そんな折、豊臣秀吉が九州に征伐軍を送り込みます。

天正一五(1587)年、南九州の島津家の助力のもと、領域の防備を固めます。その一環で益富城も拡張、多数の曲輪や空堀を巡らした大城郭へと変貌します。

画:小幡政義氏
画:小幡政義氏

しかし、その苦労も虚しく、莫大な兵力と物量の豊臣軍の前に圧倒され降伏せざるを得ませんでした。この時の突然現れた一夜城は、その象徴的なこととされ、これにちなんだイベントも行われています。

この戦役後、九州国割で秋月氏は日向へ移封。慶長五(1600)年、黒田長政の筑前入封で六端城となり後藤又兵衛が入城しますが、藩を出奔してしまい、代って鷹取城主母里太兵衛が転入しました。

その後、元和城割(一国一城令)によって破却され、城としての役割を終えました。

驚きの大規模城郭

益富城縄張図(木島孝之氏作図)

益富城は、日本建築史、城郭史研究で知られる九州大学助教の木島孝之さんにより、最近になってこれまで知られるはるかに大規模な城郭を備えていることがわかってきました。

城山と呼ばれる主郭①、②は、東西方向に約400mを測り、ここがお城の中核。

北側の山稜を利用し、小さな曲輪を配してそこを中心として畝状に縦方向に空堀をいくつも掘り出しているのがわかります。

これ以外にも虎口と呼ばれる城門の防護施設や、石垣や土塁を各所に巡らしているのがわかってきました。

遠征してくる豊臣軍を迎え討つため、秋月時代の拡張と、江戸時代黒田藩の領域となり後藤又兵衛が入城してからの改築もあり、城としての役割に大きな期待が寄せられていたことが伺えます。

やや話はそれますが、益富城は昔の行政区域である嘉麻郡と田川郡の境あたり、そして秋月街道の沿線にあたる場所に築かれています。そして、この街道も秀吉が通った可能性があります。つまり、大軍が行き来できるような主要交通網だったのかもしれません。

筑前六端城のひとつに数えられた益富城は、他の5つの城とともに黒田藩と境をなす重要な地域の防衛拠点でした。ここは筑前、豊前の境でもあり、小倉の細川藩との境でもありました。

このため、黒田二十四騎に数えられた後藤又兵衛、母里多兵衛という剛勇を城主に迎えていますし、同時に石垣を巡らすなどの近世城郭的な改築も加えられました。

東西方向約1.5㎞、南北方向約1.0㎞に及ぶ隠れた名城益富城、役目を終えた今ひっそりと地域を見守るかのように威容を隠しています。

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