母里太兵衛、後藤又兵衛が守りし難攻不落の益富城

Blog 筑豊見聞録

嘉麻市にある城郭、益富城は豊臣秀吉が九州に遠征してきた際に攻城戦がおこなわれた場所として知られています。このお城、私たちが知るよりはるかに大規模な城郭だったことが最近わかりました。この項では益富城の実像に迫ってみましょう。

もともとは永享年間(1429〜1441年)に、山口を中心に大きな勢力を保持した守護大名、大内盛見(おおうちもりはる)がこの地に城を築いたことに始まります。そんな益富城にはどんなエピソードがあるのでしょうか?

秋月氏の最大勢力その拠点、その歴史

江戸初期の地理誌『筑前國風土記』に「是秋月種実の父宗全隠居城なり」との記載があります。 つまり、益富城は戦国末期に北部九州で勢力を誇った国人領主、秋月氏の持城となっていたことがわかります。

現在の福岡県朝倉市秋月を本拠地とする秋月氏は、秋月種実の時に最大版図を迎え、筑前、豊前、筑後地方に権威を確立しました。

豊後の大友宗麟との覇権争いを繰り広げていた秋月種実は、天正六(1578)年、耳川の合戦で大友氏が薩摩の島津氏に大敗すると、肥前の龍造寺氏、薩摩の島津氏らの動向を見極めながら、筑前・豊前国の最大領主へと成長を遂げたのです。

その後、種実は長男の種長に家督と古処山城を譲り、自身は元老となって益富城に入城。 これは益富城を豊前や豊後に通じる、内陸交通の要衝に位置すると重要視した現れでしょう。 縄張り図にみるこれら大規模な遺構群は、豊臣秀吉の九州平定に際し、秋月氏が突貫普請したものと言われます。

画:小幡政義氏

外郭部の曲輪群は、秋月氏の下、周辺の 国衆が秀吉軍との主力決戦に備え益富城に結集させ、幾十と段を構築し防備を構えています。総数160本を超える畝状竪堀群に囲まれるように、山頂に位置するのは山城の主要部。

これらは後藤又兵衛が織豊系の築城技術を用いて改修を施したものと言われます。 筑前六端城と言われ、福岡藩の支城の一つとして、江戸初期に役割を担いました。 桝形虎口や横矢掛りなどの遺構は、今も良好に遺存しており、両者を比較しながら、広大な城内を散策することができる。このような歴史と大規模な遺構が残るのも益富城の魅力。

天正一五(1587)年、南九州の島津家の助力のもと、領域の防備を固めます。その一環で益富城も拡張、多数の曲輪や空堀を巡らした大城郭へと変貌します。

画:小幡政義氏

しかし、その苦労も虚しく、莫大な兵力と物量の豊臣軍の前に圧倒され降伏せざるを得ませんでした。この時の突然現れた一夜城は、その象徴的なこととされ、これにちなんだイベントも行われています。

この戦役後、九州国割で秋月氏は日向へ移封。慶長五(1600)年、黒田長政の筑前入封で六端城となり後藤又兵衛が入城しますが、藩を出奔してしまい、代って鷹取城主母里太兵衛が転入しました。

その後、元和城割(一国一城令)によって破却され、城としての役割を終えました。

一夜城伝説

この益富城の攻略戦については、一夜城伝説があります。それは以下のようなものです。

天正15(1587)年豊臣秀吉は、30万の軍勢とともに小倉城に入り 4月1日には 秋月氏を攻略しました。

秋月二十四城の一つ豊前の岩石城を1日で陥落させた豊臣の軍勢は、怒涛のごとく大隈の町に押し寄せました。 岩石城の落城の知らせを受けた秋月種実は、 古処山本城へといち早く逃れた。

この時、秀吉は、 まず嘉麻・穂波の村々にかがり火を焚かせた。 

次に、 大隈町民に命じて、 町中の戸や障子を益富城へと運ばせ、 一夜にして仮城を築いた。 その光景を前にした秋月父子は、 恐れおののき、 戦わずして降伏した。 

秀吉は、協力した大隈町民に対し愛用の陣羽織と力を与え、 お墨付をもって永代貢税を免除した。

この陣羽織は、嘉麻市で保管されているということです。

現在では、この伝説にあやかって毎年秋に「一夜城まつり」として、

驚きの大規模城郭

益富城縄張図(木島孝之氏作図)

益富城は、日本建築史、城郭史研究で知られる九州大学助教の木島孝之さんにより、最近になってこれまで知られるはるかに大規模な城郭を備えていることがわかってきました。

城山と呼ばれる主郭①、②は、東西方向に約400mを測り、ここがお城の中核。①が本丸で、②が二の丸。これら山頂部を中心に、周囲の独立丘陵を平坦に削平し、出丸や別曲輪と呼ばれる防御施設を幾十にも設けています

北側の山稜を利用し、小さな曲輪を配してそこを中心として畝状に縦方向に空堀をいくつも掘り出しているのがわかります。その範囲は5町歩(50,000㎡)に及ぶと言います。

これ以外にも虎口と呼ばれる城門の防護施設や、石垣や土塁を各所に巡らしているのがわかってきました。

遠征してくる豊臣軍を迎え討つため、秋月時代の拡張と、江戸時代黒田藩の領域となり後藤又兵衛が入城してからの改築もあり、城としての役割に大きな期待が寄せられていたことが伺えます。

やや話はそれますが、益富城は昔の行政区域である嘉麻郡と田川郡の境あたり、そして秋月街道の沿線にあたる場所に築かれています。そして、この街道も秀吉が通った可能性があります。つまり、大軍が行き来できるような主要交通網だったのかもしれません。

筑前六端城のひとつに数えられた益富城は、他の5つの城とともに黒田藩と境をなす重要な地域の防衛拠点でした。ここは筑前、豊前の境でもあり、小倉の細川藩との境でもありました。

このため、黒田二十四騎に数えられた後藤又兵衛、母里多兵衛という剛勇を城主に迎えていますし、同時に石垣を巡らすなどの近世城郭的な改築も加えられました。

東西方向約1.5㎞、南北方向約1.0㎞に及ぶ隠れた名城益富城、役目を終えた今ひっそりと地域を見守るかのように威容を隠しています。

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