人力車、発明と特許制度に関わった筑豊の人、和泉要介

Blog 筑豊見聞録

ほとんとの人が知らないことかもしれません。実は人力車の発明には筑豊出身の人物が関わっている。

彼の名は和泉要助。直方市出身の彼は、近代化の進む明治日本で人力車を発明した一人。筑豊の偉人として、彼の足跡をみてみたい。

人力車の発明と広がり

明治元(1868)年、東京で見た馬車を参考として、和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の3人が人力車を完成させたと言われる。その二年後には東京府からこの三人に対し、製造と販売を許可し「人力車総行司」と称することを許された。

日本橋で営業を開始した当時は手軽さゆえに画期的であったようで、翌年には1万に及ぶ数の人力車が東京の街を行き交ったとか。

はじめは恥ずかしがる日本人の習性からなかなかお客に恵まれず、苦心したところもあったそうだが、家族や親戚筋、友人などを乗せ、その快適さをPRすることで広がった。和泉らは江戸時代から人の足が絶えない五街道の起点、日本橋でそのPRをしたことは慧眼だったと言えるだろう。


和泉要介(浅草雷門吉兆屋より)
今でも観光地で走る人力車

特許制度への機運の陰で

人力車の営業については、当時の東京府から許可がなされたものの、爆発的に人々の足として活用されるようになったのは予想外だった。このための専売までは、保証されていなかったのだ。

当時は特許が制度化されておらず、激増する車夫(明治初期、人力車は約4万とも言われる)から使用料を受け取ることができなかった。今で言うところの特許はく奪に該当するちょっとした事件。このため当時の政府は、下賜金が与えられたという。

この事が機運となって、日本でも特許制度の必要性が説かれ、議論となった。

喜ばしい発明が、人々の利便性向上へとつながり、当時の人々のサービスへとつながったことは、新聞などでもたびたび取り上げられた。それから20年ほどの時間を費やしたが、現代につづく特許制度の確立への道を開いた。こうした意味でも和泉要助らの功績は非常に大きい。

「人力車の父」とも呼ばれた和泉要助。現代にも伝わる人力車の発明もさることながら、特許制度を整備する必要性まで世論を喚起した影響力は、特筆すべきものがある。

しかも筑豊の出身となると感慨深い。ものづくり技術やその発想に目を見張るものがある筑豊、それはわたしたちのふるさとの風土や習慣、歴史や文化などに今も息づいているのではないだろうか?

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