あるある神話 田川の地名由来

Blog 筑豊見聞録

神話に登場する「田川」

日本人なら何気なしにありそうだなと感じる「田川」という地名、この地名に秘められた話を紐解くと意外なことに気づきます。

ここでは田川という地名から、昔話に想いを馳せ、この地を見直してもらう機会にしたい。

日本最古の歴史書日本書紀にみる田川

若八幡神社(田川市)

田川の地名は、『日本書紀』景行天皇十二年の条に初めて出てくる。以下書紀からの抜粋を、おおまかなストーリーで追ってみよう。

熊襲征伐のために九州に巡幸された天皇一行が、筑紫(九州)に下る途中、周芳(周防)の国姿麼(現在の山口県防府市付近)に至ったとき、遙か南方(豊前国)を見ると煙が多く上っているのが見えた。

賊がいるのだろうと考え、武将を遣わし偵察させたところが、そこに神夏磯姫(かむなつそひめ)という女酋長がおり、天皇の使者が来ることを聞き、船を仕立ててやって来て服属を申し入れた。

そして天皇に服属しない近隣の豪族・鼻垂(菟狭の川上に居住)、耳垂(御木の川上に居住)、麻剥(高羽の川上に居住)、土折・猪折(緑野の川上に居住)を平定するようにと訴えたので、天皇はこれらをすべて捕らえ討伐した。

神夏磯姫は、田川市夏吉の若八幡神社に祀られている。

境内入口にある案内板

鼻垂は彦山川のことであろうと考えられており、神夏磯姫も麻剥も田川に関係ある人物と思われる。

先の話に戻れば、神夏磯姫の功績に対しなんらの恩賞もあたえられなかったので、その一族である夏羽と妹の田油津媛は神功皇后がこの地に来られた折暗殺しようと企てた。

しかし、これが発覚し田油津媛は誅殺され、夏羽は館を取り囲まれ館とともに焼き殺された。それでこの村のことを夏羽焼村と呼び、後に羽を略して夏焼村(夏吉の古名)というようになったという(『田川市史」より)。

言い伝え、伝承から探る田川

田川についての言い伝えはいくつかある。そのうち今でもよく見聞きするのが、現在の鷹ノ巣山(添田町)に光り輝く鷹が降り立ったというもの。鷹ノ巣山の名の由来であるとともに、「鷹羽」→「高羽」→「田河」→「田川」と時代とともに移り変わって、現在にいたるという。

確証は得られないが、鷹ノ巣山とともに古くから人々の信仰が寄せられていた英彦山は、「日子山」とも記されたとあり、ともにパワースポットとして神霊視、神格化され、この地域のシンボル的存在だった可能性は大いにある。

異様な鷹ノ巣山(向かって右側は英彦山)

このようなシンボルがいつしかこの地を指す呼び名となり、広く人々に受け入れられ、何世代もの間受け継いできたと考えるのが自然なのかもしれない。

文献記録からみる田川の地名、そして今

田川地方は古代豊前国田河(田川)郡にあたる。田河郡は「和名抄」によると香春・位登・雑怡・城田の四郷に分かれていた。

香春郷は今の田川郡香春町(金辺川流域)、位登郷は田川市位登・弓削田及び糸田一帯(中元寺川流域)、雉怡郷は添田町津野・赤村・大任町一帯の地域(彦山川流域)、城田郷は金田町・方城町伊方・赤池町赤池・上野一帯(中元寺川が合流する彦山川下流域)に比定されている。

古代の郷里制に制度化され、確固たる地名として定着し、その後荘園制へと変わっても地名までは変更されることなく戦国時代の終わりまで継承されることになる。

田川郡内では古代から香春が宿場町として、また香春嶽城の城下町として最も栄えてきたが、石炭産業の興隆とともに郡の中心は伊田・後藤寺に移った。

やや駆け足気味に書いてきたが、美化された部分も感じられつつも、日本最古の歴史書にも名が残る田川、なぜこれほどの記述があるのか不思議に感じられてくる。そこにはどんな謎が隠されているのか…興味が湧いてくる地名の話ではないかな?

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