上野の里、陶芸の里へ 上野焼誕生エピソード

Blog 筑豊見聞録

私たちの生活の身近にある焼き物、食器をはじめさまざまな道具となって暮らしに花を咲かせています。

焼き物はさかのぼれば、縄文土器も焼き物となります。つまり、何千年前から関わりのあったものです。

時にはさまざまな文様や色彩で飾られることもあり、この意味では美術品としても扱われるのが焼き物という工芸品です。

この地に生まれた今に受け継がれる焼き物のなかでも、筑豊には高取焼、上野焼という400年以上受け継がれている文化があります。

ここでは上野焼にクローズアップし、その誕生に関わるエピソードにふれてみましょう。

争いがきっかけで生まれた焼き物

上野焼の誕生、それは戦国時代も終わり天下統一となった安土・桃山時代にまでさかのぼります。

この時代は絢爛豪華文化が華開いた時代、そして人々は、戦国時代という争乱から安息を求め太平の世を望んでいた時でもありました。

そんな折に勃発した国際紛争ともいうべき文禄・慶長の役(1592〜1598年)は、多大な犠牲をはらったものの、何ら戦果のない戦役でしかなかった。出陣した西国諸大名は、自国へ帰陣の際に、現地捕虜を連れ帰っており、その中には陶工の存在もあったと言います。

このとき大名たちをはじめ人々は、茶の湯を嗜みとしていました。このような背景もあり西国の諸大名は、自国領内にその陶工らの手で窯業を起こし、藩内の殖産事業の一つとして奨励しました。

豊前小倉藩には、細川忠興公が藩主として居城しており、朝鮮陶工尊楷一派を招しての窯業創業となったと考えられています。この尊楷という人物、毛利勝信が連れ帰ったという説。今一つは、加藤清正が連れ帰り、唐津に渡来、という説があるようです。

どちらにせよ小倉藩に招聘され、中津から小倉城へ移った慶長七年(1602)ごろ、上野の地で窯を開いたことは間違いないようです。

桃山時代から江戸初期に始まった上野焼と高取焼

この時の朝鮮では、作陶をする職人たちの身分は決して高い訳ではなく、むしろ低いくらいのものだったらしい。

このため、祖国をみくびり日本へ行って現地で創作活動する方がよっぽど恵まれた環境があると考える匠たちもいたようです。

この時に同じような事情で生まれた窯元は、全国各地に広がり、それぞれにユニークな道を歩んできました。

その一つ上野焼は、隣にある高取焼とともに、それぞれ小倉藩、福岡藩より庇護を受け、400年以上の歴史を刻んできました。

開祖尊楷について

上野焼の開祖と言われる尊楷について、以下のような興味深いエピソードがあります。

(尊楷の出身地は)朝鮮国四川縣十時郷、とするのがどの文書も一致する。実際に十時郷は存在した。平成十二年十一月五日、韓国の小説家の招待で、渡久兵衛、十時開次両氏が訪韓したのである。現地では、「十時の十三代目子孫四〇〇年ぶりに帰郷」、「お祖父さん・・・・今になって来ました四〇〇年ぶりに故郷を訪ねた泗川陶工尊楷先生の子孫」、「窯人生一筋」の見出しで大々的に報じられ、歓迎されたのである。そして、慶尚道泗川県安陳方村の十時(ボジコル)と呼ばれる所が尊楷の出身地とされていた。「十時郷」という地点は、吉湖江にかかる「十水橋」の地というのだ。「十水橋」の由来は、ヨルムル「十水」テ「時」に湖水が橋の真下まで満ちる。十水の時とは、陰暦の四日と十九日のこと。従って、陰暦の十水の時は橋まで湖が満ちることから「十水橋」となり、「十水時」の「水」が略されて「十時」となったというのである。

『上野焼四百年』より

尊楷は三十年にわたって細川忠興公好みの茶陶を製作し、細川家が肥後熊本藩に転封されると、それに従って肥後に移り高田焼を興しました。

一方上野の里の方では、尊楷の息子と娘婿が残って作陶を続け、細川家に代わって小倉藩に入封した小笠原家の下で藩窯とされました。

初期の頃はどっしりとした風格すら感じる作風が印象的でしたが、次第に洗練された上品なものへと変化していったように感じられます。遠州好みの茶陶を多く製し、そのため遠州七窯の一つとされました。

上野焼の窯で最も古いのが、釜ノ口窯です。慶長七(1602) 年、細川忠興の招聘を受けた尊楷が開窯し、寛永九(1632)年細川家の肥後移封にともなって閉じられました。

全長41メートルの登り窯で、内ヶ磯窯にはやや劣りますが、当時国内最大級でしょう。室ごとの奥行きや高さが不均一であることから、幾度か室を継ぎ足した結果、この規模になったとみられる。

なお、釜ノ口窯閉窯後は、尊楷の後継者が皿山本窯を中心として上野焼の生産を引き継ぎ、幕末まで250年以上藩の特産品としての地位を築きあげてきました。

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