パワハラ?を受けた黒田家家老後藤又兵衛が筑豊に残した遺産

Blog 筑豊見聞録

後藤又兵衛は、戦国シミュレーションゲームにも必ずと言ってもいいほど登場する戦国武将です。黒田藩の中で重臣となり益富城(現在の嘉麻市)を拠点として1万6千石という大名クラスの地位を確立しました。ここでは、筑豊地方に関わりのあった後藤又兵衛という人物についてお話ししたいと思います。

黒田家臣として活躍、朝鮮出兵で武功を上げる

後藤基次像(福岡市博物館蔵)

又兵衛は幼少期より武芸に励み、15歳で初陣を飾りました。その後、黒田官兵衛・長政の二代に仕え、重用されました。

特に、朝鮮出兵においては、数々の戦いで武功を挙げ、その名声を高めました。泗川における敵陣突破や蔚山城攻略戦での活躍は目覚ましく、平壌城攻略戦の嘉山城攻めで一番槍、迎撃戦での白川城において黒田軍の勝利に大きく貢献しました。各地の大名にも大きな印象を与えたといいます。

領内の統治と軍備強化とともに益富城の城主として

後藤又兵衛イメージ図

朝鮮出兵から帰国後、又兵衛は黒田家重臣として活躍します。外交交渉や家臣の統率など、様々な任務をこなし、黒田家の発展に貢献しました。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで黒田家が筑前国福岡藩を与えられると、又兵衛は1万6千石の益富城主となりました。

又兵衛は領内の統治に力を注ぎました。年貢の徴収や検地を行い、農民の生活を安定させました。また、兵士の訓練にも力を入れ、益富城を堅固な城郭に改修しました。

現在益富城の本丸、二の丸に残っている石垣は、この頃に普請され出来上がったものとされ、不穏な関係であった隣国豊前細川藩との有事を視野に尽力したようです。

主君との不和、浪人生活

しかし、その後福岡藩黒田家を去り、浪人生活を送ることになります。その理由は諸説ありますが、長政の嫡男・黒田忠之との確執や、又兵衛の直情的な性格が原因とされています。

又兵衛の出奔を支援した隣の藩の細川家や池田輝政といった他の大名たちとの関係も影響していたとも言われます。朝鮮出兵での評価が高く、諸大名が「欲しい」と思える武将、それが基次という人物でした。

このような人物評に恐れを抱いたのが長政で、全国の大名に向けて「奉公構(ほうこうかまい)」という書状まで発布して、又兵衛を召し抱えないようにする画策をしていました。

以上のように、藩内はおろか全国的な知名度と実績により、藩主長政の反目を買ったために基次は自ら重役を辞した形となったようです。見方によっては長政の理不尽なパワハラ?

または基次の実直さに業を煮やした?周囲も手を焼いたからか?真相は闇の中…

大坂の陣で活躍 壮絶な最期

慶長19(1614)年、大坂冬の陣が勃発すると、豊臣秀頼に招かれて大坂城に入城します。そして、真田幸村、木村重成らと共に徳川軍と対峙しました。この時基次は「大坂城五人衆」とも呼ばれ、徳川方からマークされました。

夏の陣では、天王寺口の戦いにおいて徳川軍の猛攻を果敢に撃退し大いに活躍しましたが、最終的に大坂城は陥落し、又兵衛も壮絶な最期を遂げます。(生存説もありますが)

この辺りは大河ドラマ「真田丸」の中にも描かれた内容(基次役は哀川翔)を思い出すという方も多いでしょう。これ以外にも又兵衛は、大坂の陣をテーマとした映画やドラマには必ずと言ってもいいほど登場する重要な脇役です。

益富城遠景

このような又兵衛が手塩に掛けたのが益富城でした。城の範囲は50,000㎡におよぶ広大なもので、黒田家を支え守ろうとした姿勢がうかがえます。今も石垣をはじめ、曲輪、堀切などの遺構が残っています。益富城については、詳細な記事をリンク先からご確認ください。

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