筑豊の未来を見据えた銅御殿(あかがねごてん)〜旧林田春次郎邸〜

Blog 筑豊見聞録

炭鉱王たちの邸宅、それは明治から戦前にかけてみられた筑豊地方の栄華を象徴する豪邸で、飯塚市、直方市、宮若市などに今も残っている。

その他の地域にはこうした建築物が残っていないが、田川市にはこれに比肩するような奢侈な和風建物がある。

ここでは通称「銅御殿」と言われ、現在は料亭として活用されている、旧林田春次郎邸にクローズアップしてみよう。あわせてその亭主であった林田春次郎という人物についてお話ししたい。

夢を与えた御殿

林田春次郎旧邸(料亭あをぎり) 田川市新町の一際高い石垣の上に、銅板の色が緑青を帯びた大きな屋根の邸宅が見える。土地の人々が「銅御殿」と呼んでいた林田春次郎の旧邸である。

建物は、築150年経過の旧庄屋の居宅を改造した二階建ての「本館」と小階段で接続した別館の「銅御殿」で成り立つ。「銅御殿」は春次郎が昭和九年に新築した木造二階建、入母屋造、銅板葺で、建物の設計施工は宮大工技術者が関わった。

なお、現在は料亭「あをぎり」としてを歩んでおり、建物は国登録有形文化財とされ、現役での営業とともに文化財としても親しまれている。

二階大広間の床の間より奥の書院の間は最上段の空間として仕立てられ、素晴らしい展望である。春次郎は客人をもてなす場所として、この銅御殿を使い、郷土田川の発展と建設に邁進したのである。炭鉱都市田川の近代化は、この春次郎の存在を抜きにして成り立たないと言える。

ブログ「貴族の部屋」より引用

また、同屋敷と敷地を連ねた小公園に「林田翁頌徳碑」が建てられている。 昭和一二年六二歳の年、林田春次郎の銅像の除幕式が行われた。実に堂々たる体躯に力がみなぎった像だった。

残念なことに、太平洋戦争の激化と軍需品不足により、このブロンズ像も供出されて消滅した。台座の表には当時の銅像の名盤、裏面には碑文がそのまま残っているが、昭和二八年になり、銅像の台座の上に頌徳碑が建てられた。

林田春次郎という人物像

田川市立図書館/筑豊・田川デジタルアーカイブより

林田春次郎は、明治8年11月11日、現在の田川市伊加利で生まれた。 地元の伊田尋常小学校(現鎮西小学校)を経て豊津中学校に入学したが、16歳の病気で退学し、自宅で療養生活をした。

病気平癒の後、農業に従事していたが、明治34年、26歳で伊田村々会議員に当選した。明治42年、34歳で伊田村長当選、明治45年田川郡会議員当選、大正3年伊田町制施行町長就任以後累任、大正5年県会議員当選、昭和3年県会議長 (昭和10年満期退任)、昭和18年田川市初代市長 (昭和21年、公職追放直前に辞職)。村長・町長・市長として、長い間、地域の発展一筋に尽くした稀有の地方政治家である。

以上の地方自治界の略歴だけでも、その生き方がうかがえる。 伊田村長就任挨拶の時「三つの誓い」を述べ、生涯にわたり実践している。

「その第一は、神さまを中心として国民精神を作興し、村の向上発展を期し、和にして質実剛健の村の確立。第二は、将来名実ともに日本一の理想郷にしたい。このためあらゆる機会を捉えて教育、文化、交通、産業、経済その他諸般にわたり、全力を傾注する。 第三は、百年後の伊田村の在り方を常に研究題目とし、一面あの旭日昇天の如き三井鉱山といえども、必ず寿命のあることを忘れてはならぬ。なお、現在伊田村の面している客観情勢は、三井鉱山と共存共栄の立場で進まねばならない」。

田川市立図書館/筑豊・田川デジタルアーカイブより

くしくも、この伊田村長就任の時は、三井伊田坑の竪坑櫓が完成し、本格的に出炭が始まった段階である。その時に、既に炭鉱閉山を予測して、閉山を前提にした地域造りを考えているのである。

また、春次郎が常に先頭に立った三井との数々の折衝や具体的な施策(例えば、今日の東鷹高校の前身田川実業女学校の設立)などを追ってみると、一寒村から炭鉱開発に伴なう伊田町の発展の諸問題を克服しつつ、時に必要なら巨万の私費を惜しみなくつぎ込みながら乗り切っている。

地域の近代化に尽力した林田は、今日の炭鉱閉山後の未来も見据えていた。近代化という大きな時代のうねりの中、炭鉱とは別の産業や人材育成を描いていたのかもしれない。

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