黒田節のモデル母里太兵衛 筑豊で受け継がる伝説

Blog 筑豊見聞録
福岡市博物館絵はがきより

黒田節、一度は耳にしたという人も多いのではないでしょうか?戦国時代きっての猛将、福島正則と大酒呑みを掛け合いした母里太兵衛をモデルとした伝説的な民謡、実は筑豊地方ともゆかりが深い。ここではそのゆかりにクローズアップしてみましょう。

名鎗日本号を呑み取った酒豪

母里多兵衛

母里太兵衛友信はもともと播磨国加古郡母里の出身(現在の兵庫県)で、黒田家の重臣として知られています。「黒田二十四騎」という黒田家家臣の精鋭部隊の一人、かつ「黒田八虎」とも呼ばれていました。

太兵衛は福岡藩の藩祖である黒田如水、初代藩主の黒田長政に仕えた忠義の士としても知られ、江戸に幕府がうまれ太平の世となる前までは各地を転戦した剛勇の士でもありました。

文禄五年(1596)正月、太兵衛は長政の名代として、京都・伏見の福島正則邸に挨拶に行く機会があったそうです。このとき、正則より酒を勧められ、その役目により一旦は辞退します。

太兵衛は大変な酒豪としても知られ、喉から手が出るほど欲しがったのかもしれません。しかし、長政の名代という役割がのしかかり、酒を辞退したのでしょう。

しかし、正則は太兵衛に「飲み干せたならば好きな褒美をとらす」と勧め、挙句の果ては「黒田武士は酒に弱い、酔えば何の役にも立たない」と挑発的な言葉をかけたと伝わります。

この「挑発」が、太兵衛の競争心に火をつけることになった。

太兵衛は大盃の酒を一気に数杯呑み干してしまい、褒美に豊臣秀吉から正則が拝領した名槍「日本号」を所望した。

名槍日本号(福岡市博物館所蔵)

正則は「武士に二言は無い」というと、潔く「日本号」を差し出したそうです。なんとも気前のいい男っぷり!

これが民謡「黒田節」として、黒田武士の男意気を示すエピソードです。

なお、名槍「日本号」は、現在、福岡市博物館に所蔵され、時に一般向けに公開されています。

その後、太兵衛は出世を遂げ、直方市の鷹取城一万八千石の城主、嘉麻市大隈の益富城城主を経て、元和元年(1615)に六十歳でこの世を去りました。ちなみにお墓は、福岡県嘉麻市大隈町の麟翁寺にあります。、

母里多兵衛之墓

伝説化した母里太兵衛、嘉麻市のふるさとで酒造りへ

日本山岳遺産嘉穂アルプス(嘉麻市)

元和元年の一国一城令のもと、先ほどお話しした鷹取城、益富城は双方ともに破却となりました。争乱のない戦国時代の終わりを意味するように、日本には太平の世が訪れます。

母里太兵衛が眠る麟翁寺は、嘉麻市でも山間、朝晩の寒暖の差があり、清らかな水を古くからの米作りに支えられた肥沃な環境に囲まれています。そして、益富城の城下には大隈宿という秋月街道の宿場町が、古くから発展してきました。人々の往来と行き交う物資や商品が、この町を発展させました。

太兵衛の伝説にあやかってか、ここに造り酒屋が江戸時代に生まれています。

一つは「寒北斗」が代表的なブランドの玉の井酒造(現在は寒北斗酒造)。創業は享保十四(1729)年、それから約300年間伝統的なスタイルを守りつつもあたらしい日本酒の可能性を探求しています。(⇒寒北斗酒造公式ホームページ

ももう一つ紹介したいのが、天保年間(1837~1845年)に創業したという大里酒造。代表的ブランドがその名も「黒田武士」、地の利を活かした酒造で知られ、最近ではスイーツとのコラボなどあらたなスタイルも模索しているとか(⇒大里酒造公式ホームページ

大里酒造

福岡や九州と言えば全国的に焼酎が知られていますが、日本海側の気候と言える福岡は日本酒づくりも盛んです。そんな地域の代表的地酒に母里太兵衛の姿を重ね、これからも受け継がれていくものがここにはあります。

それは、ひょっとしたら太兵衛がいなければなかったのかもしれませんね。

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