王墓発見60年 立岩から考える古代上 寄稿 考古学者 高島忠平 

Blog 筑豊見聞録

魏志倭人伝に記されている「邪馬台国」や「伊都国」とともに登場してくる「不弥(彌)国」は、飯塚市を中心とする平野部一帯を範囲とする古代国家とする考察がある。

その研究において九州では第一人者である、高島先生の論考をここでは紹介したい。

また、一般的な方々へのご理解を深めてもらうため、やさしい解説も後ほど加えておきたいと思います。

倭国連合の一翼を担う

立岩王墓の発見

「立岩王墓」の発見 大きな10号甕棺の中にすっぼり潜り込んでいた高校生が叫んだ。「しぇんぱい (先輩) 銅剣げなんとがあります!鏡げなんともあります、ほら!」と、私の目の前に青さびた円 盤をつきだした。「おっ!」私は絶句した。まぎれもない青銅鏡である。とっさに私は「元のところに戻せっ!」と怒鳴っていた。

足元の甕棺内部一面の朱と緑青をふいた青銅鏡が色鮮やかな対比をなしていた。福岡県飯塚市の立岩遺跡、中国古代の漢式鏡六面を副葬した「立岩の王」との出あいの瞬間であった。1963年6月4日、60年前の事である。 

石包丁生産と交易

立岩遺跡は、弥生時代稲穂を摘む石庖丁の製作・頒布地として知られている。立岩丘陵100haに割拠した一族を中心とした氏族共同体は、弥生時代中期(紀元前1 世紀) 石包丁を独占的に制作し、九州北部一円に頒布していた。当時の九州北部では立岩産石包丁、福岡市西区の今山遺跡産太型蛤刃石斧のほか、青銅器、鋳型石材、鉄製品、ガラス、貝製品、絹製品など物資・技術が取引される流通回路が形成されつつあった。立岩産石包丁は今山産石斧とともに多量の制作・頒布状況から見て、単なる道具を超えて交換財として流通して九州北部弥生社会は、共有する価値観のもとに、社会的分業を可能とする交易圏が成立していた。 立岩遺跡の石包丁制作は当時の社会的分業の在り方を示す重要な指標となっている。 

「国」と王権の構造

立岩遺跡堀田の6面の漢式鏡、鉄剣、銅矛を副葬した10号甕棺墓、1面の小型漢式鏡、直刀と頭飾りを副葬した2号甕棺墓は、同県糸島市三雲南小路の1、2号甕棺墓、同県春日市須玖岡本の漢式鏡を多数副葬した甕棺墓と同様に、弥生時代中期に九州北部各地に「国」と「王」が存在したことを示している。立岩の「王」の統治する「国」は、 この時期、九州北部に勃興してきた「国」の一つである。副葬品から見ると立岩遺跡堀田10号甕棺墓は男性、26号甕棺墓は女性である。 三雲南小路遺跡1号甕棺墓は30面以上の大型青銅鏡、武器等の副葬から男性、2号甕棺墓は20面以上の小型青銅鏡を副葬か女性である。このことから、男王と女王の並立、世俗王と巫女王の存在、聖と俗の権力による一国統治が成立していることが指摘できる。

邪馬台国の時代

弥生時代後期(紀元2、3世紀)、立岩遺跡は本拠を丘陵西方の沖積平地に移し、丘陵西端に王墓(墳丘墓)3基を営造した。 3号墳丘墓から後漢鏡が出土するなど、立岩王権は継続していた。石包丁の制作は収束するが、九州北部の交易圏の橋頭堡的役割は依然として担っていた。この交易圏は3世紀の国々の連合体倭国形成の歴史基盤となり、聖と俗の二重の政体は、女王卑弥呼と弟との聖俗による倭国政権に連なる。 立岩遺跡を中核とした遠賀川上流地域は「不彌国」として倭国連合の一翼を担っていたと考えられる。

解説

立岩遺跡から発見された中国製の銅鏡は、当時の遠距離交易や文化交流を示しています。立岩遺跡の10号甕棺墓から発見された銅鏡は紛れも無く中国製で、日本で模倣したものではない。銅鏡は当時の権力や威信の象徴とされており、その存在は当時の社会的構造や文化に関する洞察を提供しています。また、中国製の銅鏡が日本に持ち込まれた経路やその影響についての理解を深める上で重要な証拠となります。

同郷は当時、一般に流通していたものとは考えにくく、中国の漢時代でも王墓に相当する墳墓から発見される傾向がある。現代で捉えるとロールスロイスなどを所有できるV I P的な存在と言えるかもしれない。

渡海をも含めて大陸と交易ができるということは、それを実現できる地域的なまとまりや生産性のある富を蓄えることができた「国」が想定され、これは立岩産の石包丁が裏付けとなる。

立岩遺跡は石包丁で知られ、遺跡周囲からは未完成の石包丁が多数発見されております。これらは福岡県内をはじめ、広く佐賀県や大分県まで広く流通したと考えられています。石包丁の生産所跡や多数の甕棺墓とともに発見されています。以上のことから、立岩遺跡は石包丁の生産・流通の中心地であったことが窺えます。その原産地も笠置山周辺と考えられています。

石包丁が広く流通した背景には、当時の稲作に欠かせない農耕具としての需要が考えられます。立岩遺跡で製作された石包丁は、稲の穂を摘むために使用されており、この当時の稲作において重要な農具でした。北部九州一円からニーズが寄せられた形が伺えるのです。

米を生産するということが人々に定着したため、暮らしに余裕が生まれその結果奢侈な品物を持てる富裕層が生まれたと考えられているのもこの時代の特徴。これにより、石包丁の需要が広範囲にわたる地域で存在し、交易活動が活発となり、権威と富、統率力を持った「王」が存在したと考えられます。立岩産石包丁の広範な流通は、当時の地域間交流や経済活動の発展と深く関わっていたとみられる物的証拠とも言えるでしょう。

こうしたことから飯塚市立岩を中心とした平野部に「不弥国」が存在していたのではないかと考えられているのです。

遠賀川流域の重要性

ホナミの王

「にじむような赤、黒、黄、緑の原色の強烈さ」。1934年秋、福岡県桂川町寿命王塚の壁画は発見された。壁画は、石室全面に隙間なく描かれていた。 天井は無数の天空の星、壁面には三角形、蕨手文・双脚輪状文など呪文的な図柄を 背景に人、馬、太刀、盾、など具象図が描かれている。石屋形の寝棺は三角文で隙間なく埋められている。 各種図柄は、下地にベンガラを塗布、その上に描く大陸由来の技法で壁面から浮き立つようで他に例がない。 無数の星は結んで星座を造り、天空画画は王ホナミの王の支配観である。

王塚装飾古墳石室内(レプリカ)

王たちの系譜

不彌国は邪馬台国までの行が里程から日数に代わる国交通の要衝である。弥生時代は立岩遺跡の石包丁など九州北部交易回路の結節点でもあり、遠賀川上流域(旧穂波郡)は不彌国の蓋然性が高い。 立岩の王を起点に不彌国の王権は4、5、6世紀と引き継がれた。4世紀は辻古墳(同 県飯塚市)、忠隈古墳(同)、茶臼山古墳(桂川町)、金羅山古墳 (同)、5世紀は沖出古墳(嘉麻市)、城山古墳(飯塚市)、山ノ神古墳(同)、小正西古墳(同)、6世紀は寿命王塚(桂川町)、天神山古墳(同)、宝剣塔古墳(飯 塚市)、寺山古墳 (同)、 宮ノ脇古墳 (同)などに地域の有力氏族間で共立・交代しながら継承された。 5、6世紀、遠賀川流域の古墳には、朝鮮半島の新羅、伽耶系の文物が多い。 遠賀川流域の各勢力は、 遠賀川河口の津、響灘海路を通じて朝鮮半島百済、伽耶、新羅との外交交易において大きな役割を果たしていた。朝鮮半島西南部栄山江流域南部に倭人の進出と見られる5世紀の九州系石室を持つ古墳はこうした背景があった。 

ヤマト王権の進出

1世紀中国の外臣「倭国」としての認証以来、九州北部をはじめ近畿南部、近畿北部、 山陰、瀬戸内など列島各地の地域国家間において、中国王朝・朝鮮半島間との外交・交易の主導権争いは激しくなっていた。 5世紀、近畿南部のヤマト王権は列島各地の勢力との間に同盟・貢納関係を築き進出しつつあった。 九州北部地域は対外ルートとして重要でありヤマト王権にとって九州進出は焦眉の課題であった。 ヤマトの九州進出を物語る遠賀川河口域の豪族熊鰐と仲哀天皇との抗争の伝承が日本書紀にある。 

磐井の乱

6世紀に入り、ヤマト王権の九州進出はツクシ王権との抗争「磐井の乱」となった。ヤマトとツクシは、朝鮮半島の三国の動勢と関与しながら、それぞれ古代国家形成を 目指していた。遠賀川上流域は、磐井の墓 ・岩戸山古墳の地域と石室、石棚、石屋形、壁画、石材など共通性をもつ。そのいずれの条件も備えた寿命王塚は磐井の墓と機を一つにして築かれた。卓越した壁画古墳を築造したホナミの王は磐井を統領とするツクシ王権の有力な担い手であった。 ツクシに勝利したヤマト王権による我鹿屯倉(赤村)、鎌屯倉(嘉麻市)、穂波屯倉(旧穂波郡)の設置を地域から見れば、遠賀川上流域が物資流通において政治・経済上のポテンシャルの高かったことをしめしている。

以上、西日本新聞に寄稿された記事内容を、原文のまま掲載。

解説

王塚装飾古墳は福岡県嘉穂郡桂川町に位置し、6世紀前半に造られた前方後円墳です。特徴としては、石室内の壁画が5色で彩られており、100点を超える出土品が発掘されています。王塚古墳は日本三大装飾古墳の一つとされており、圧倒的な色彩が織りなす古代人の死生観を現代に伝えていることが重要であるため国特別史跡にされています。この意味では国宝級の古墳と言っても過言ではありません。

日本全国にある装飾古墳のうち、熊本県菊地川流域と福岡県筑後川流域のものを算出すると、全国の装飾古墳の約半数近くが発見されており、この地域が装飾古墳の分布の中心地の一つであることが示唆されています。こうした地域に近接するように王塚古墳は位置しているのです。

「不弥国」があったと考えられる1世紀から、4世紀から6世紀代に王墓が古墳へと形式や葬送儀礼を変え巨大化し、隔絶した規模の陵墓が作られた背景には、強力な統率力ともった首長と格段に向上した地域の生産性が考えられます。

古墳は一つ作り上げるのに数千人から数万人の労働力と、これにともなう必要な物資の供給が求められます。このため、「不弥国」が誕生した1世紀から、中心地を変えつつ脈々と嘉飯地域に受け継がれてきたのではないかというのが研究者の共通した見解です。

そして、肥後・筑後地域に分布の中心が偏る装飾古墳は、磐井の乱の母体となっていた地域連合の存在が想起されます。畿内で誕生したのではと考えられる前方後円墳という墳墓の形式を習いつつも、人の目に触れることの少ない埋葬主体(石室)内を独自の葬送感で彩る。これは表面上ヤマト王権に恭順しつつも、その核となる部分は微妙に異なるイデオロギーのように考える研究者もいます。

大陸との交易や政治的外交を背景に、ヤマト王権とは違った地域社会の形成を物語るかのように。

高島忠平先生の紹介

高島忠平先生

1939(昭和14)年飯塚市に生まれた先生は、嘉穂高校を卒業後、熊本大学で学んだ。

1989(平成元)年からはする佐賀県の吉野ケ里遺跡保存対策室長となって、現在の吉野ケ里遺跡公園の基本を作り上げた経歴があり、「邪馬台国九州説」の展開、時に「ミスター吉野ケ里」とも呼ばれている。

炭鉱王では、立岩遺跡の調査に関わり、古代史の研究において重要な貢献をしています。魏志倭人伝に記されている「不弥国」の候補地の一つとされる立岩遺跡の重要性についても寄稿しています。彼の研究活動は、古代の倭国連合に関する理解を深める上で重要な役割を果たしています。

以上のような経歴から佐賀県教育委員会副教育長、兼県立名護屋城博物館館長などを務めたのち公職を退任。1999年より佐賀女子短期大学教授として教鞭を振るったこともあります。

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