日本全国各地にあるという「大坂」という地名、そこには意外なストーリーがあることが多い。筑豊地方にも大坂という地名はあるが、それが山の名前にもなっているところがある。この稿では大坂山をピックアップし、そこに秘められたストーリーを伺ってみよう。
貴族も行き来した峠、大坂山
ページトップの画像は、田川伊田駅付近から遠く大坂山を望む様子。時は朝、日の出から間もない時間。朝霧の中に入り込む日差しが、光の屈折により絶妙なグラデーションを演出している。
遠くに望む大坂山は、古代貴族の歌にも詠まれた事を知る人は少ない。
平安時代当時の中下流貴族が、地方の国司(旧国ごとに任じられた地方行政官)となり京から赴任されたり、任を終え京に戻る際、その地にちなんだ歌をしたためる事が多かった。旧豊前国の大坂山もこうした歌に取り上げられ、とある歌集に残っている。
『橘為仲朝臣集(たちばなのためなかあそんしゅう)』というものがある。この橘為仲という人物は、京の中流貴族だったそうで、その為仲が任国に受領(「ずりょう」と読み、地方官)として赴く際に記した和歌集がこれ。
ここで登場してくる橘為仲という人物、藤原頼通(992~1074年)の時代に歌人としても当時は有名だった。勅撰和歌集(天皇や上皇の命により編纂された和歌集)にもその作品が掲載されたほどの文化人といえ、現代に例えれば文化勲章の叙勲対象者とでもいうべきかもしれない。
『橘為仲朝臣集』には、豊前方面から太宰府を目指して大坂を越える時、為仲が歌をしたためたことが記されている。つまり、当時の貴族も通る程の、主要な交通路だったのだろう。
大坂という地名の秘密
大坂、それは一説に「会う坂」が転じてついた名称とされる。日本全国各地に大坂という地名はあるようで、それは「会う坂」がもともとではないかとも言われる。
「会う坂」、それは先ほどふれた国司の赴任、解任とも関わっているようで、新旧国司が国の境界で顔を合わせ、国司の任の交代となる場所だったと考える学説がある。ここに示す大坂山、この説にあてはまるものと言える。任国となる国を一望でき、かつ交通の往来のできる場所(今は人の往来は少ないが、大坂峠の旧道は今でも確認できる)でもあるため、この呼び名が残っているのかもしれない。
歌を詠んだ貴族たちは、画像にあるような光景は想像だにしなかっただろう。炭坑で栄え、駅構内は多数の線路と石炭貨車が並んでいたことなど、知る由もなかった。そして、今炭坑はなくとも、ひっそりとした中に何か秘めた力すら感じる光景は、これからの何かを秘めたようにも感じるのではなかろうか?
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