大役を任された機関士の腕の見せどころだった。 平坦な直線で軽くブレーキをかけながら、通常は閉める蒸気加減弁を開いて勾配を登るように力走し、9600形59684号機に黒煙を吐かせた。
博多延伸開業を控え、試運転中の山陽新幹線へのあいさつ代わり。 筑豊本線との立体交差で、「0系電車」と交わった。
機関士は国鉄直方機関区の江口一光さん(昨年10月、92歳で死去)。14歳で国鉄に入り、8歳で機関士となった熱達の職人だった。
生前の取材で、そう話した。1974年2月2日、筑豊本線でのSLラストラン。 炭田の隅々から石炭とSLが集まった直方区から既に蒸気と煙は消えていた。
行橋区の59684号機を操り、後ろに付いた後藤等区の59647号機との重連で客車6両との編成による「さよなら列車」を門司港から飯塚まで動かした。
上司から新幹線との交差を指示されたのは、出発の直前だった。 交差は2度。まず西小倉駅付近で並走後に鹿児島本線をまたぐ地点で博多方面行きと、次が筑豊本線の筑前垣生筑前植木間の体交差で小倉方面行きと。
「秒 (単位)の仕事。必死だった」と江口さんは振り返った。
長く石炭や石灰石の輸送を担った老雄が、九州に進出した新幹線にバトンを渡す。機関士にとって、鉄道の主役交代をドラマチックに演出する役目を担う乗務でもあった。
筑豊本線との交差では走行しながら「(新幹線は)まだか、まだかと、機関助士に聞いていた」と江口さんは記憶する。
新幹線が走って来るのは右手からで、側にある運転席の視界に入らなかったが、見事なタイミングで十字を描いた。
筑豊興業鉄道が若松直方間で開業してから84年目。 筑前垣生 筑前植木間は石炭輸送増強のため、開業から2年後に九州で最初に複線化された区間だった。 新旧の車両とともに歴史が交差し、国鉄が目指した動力車の「無煙化」が筑豊で達成された。江口さんの最後のSL乗務でもあった。
1891年8月30日、筑豊の一番列車が走った。やがて一帯に線路が伸び、国の発展のエネルギー源となった地域の宝を運び続けた。
筑豊とともに生きた鉄道の姿を、産業遺産と言える蒸気機関車(SL)や作家がつづった物語、専用鉄道や貨物支線を含む炭鉱からの運炭の軌跡を見つめながら、筑豊版の年次企画としてつづる。 SL編は3両の肖像を描く(安部裕視)
文:安倍裕視 西日本新聞3月21日付朝刊筑豊版より
このエピソード、今も時折耳にするほど語り継がれている。
明治20年代に開業した現在の筑豊本線は、地方の鉄道としては異例の早さで整備された。130年の歴史をもつこの路線、東海道本線、山陽本線などのように江戸時代から続く主要街道に沿う地域に位置するわけでもないにも関わらず、「本線」という名称であることにも示している。
これは、明治期に炭坑から石炭を運送するために重要視されたためのものと考えられ、近代化を急ぐ日本をエネルギー面から担う役割を期待された証拠と言っても過言ではない。
その筑豊からSLが引退するということは、一つの時代の終わりと新時代の到来を象徴する出来事だった。
この記念イベントで最後の雄姿を見せてくれた9600型蒸気機関車は、先頭の1両が田川市の石炭歴史博物館に、そして後方の1両が直方汽車倶楽部で静態保存されている。見学の際は、そんなエピソードを思い出してもらえればうれしく思います。
その他筑豊に残るSLのエピソード
コメント