平和の尊さを胸に 赤村で起きた爆撃、そして戦争遺産

Blog 筑豊見聞録
米軍機、赤村へ空爆(イメージです)

8月といえば終戦の日が思い出されます。今私たちが平和に暮らすことができるのも、多くの犠牲の上に成り立っていることを忘れたくないものです。

戦時中、筑豊にも戦争による影響がありました。そこでこの稿では、赤村での出来事にクローズアップし、空襲を体験した当時の人々の体験談をもとにお話しいたします。同時に、現在も残る戦争の遺産も紹介し、あらためて平和の尊さの意味を考えてみましょう。

のどかな田舎に起きた爆撃

太平洋戦争末期の昭和20年8月、日本中が米軍の空襲にさらされておりました。福岡県内でも福岡や小倉などが大規模な空襲を受け、久留米、大牟田といった軍関係施設がある地域は例外なく攻撃されました。近隣では特攻隊の基地であった旧海軍航空隊築城基地(航空自衛隊築城飛行場)が連日のように激しい空襲を受けておりました。

赤村が米軍の空襲を受けたのは、その年の8月7日の午前11時ごろのことと記録にはあります。疎開先などのイメージをもたれがちな、のどかな村という印象の赤村にも空襲があったのは驚きです。

写真向かって左手の山が岩石山、右側の丘陵部が葛城山、右隅の建物が赤小学校上赤分校

米軍の爆撃機は岩石山と権現山(葛城山)の上空から上赤方面に侵入し、横一列の編隊を組んで飛来してきたそうです。編隊は轟音とともに急降下し、峰岡から上赤分校、丸熊に到る地区に数発の爆弾を投下したということです。このときの様子を少し詳しく調べてみました。

当時分校には一、二年生が在籍していましたが、空襲当日は二年生のみが在校していました。担任の先生は戦争の混乱でなかなか授業がはかどらず、この日は遅れていた通信簿を職員室でまとめる作業をしていたそうです。本来は夏休みの時期ですが、二年生は登校して自習をしている最中でした。

その時空襲警報がなり、先生はあわてて二年生達に防空壕へ避難するようにと指示しました。重要書類を保護しようと思った先生は、二年生を避難させた後職員室に戻ったそうです。その戻った矢先に猛烈な炸裂音とともに爆撃機が現れ、それを見た先生はとっさに今川へ飛び込み、身を伏せて難を逃れたということです。

分校の校舎は倒壊こそ免れたものの、爆弾の破片で壁には無数の穴が開き校舎内はほこりが充満して、机やいすはなぎ倒され、窓ガラスは割れて散乱するという惨状でした。30人ほどの児童がいた分校で、犠牲者を一人も出さなかったことは奇跡的という他ありません。この惨劇は、今も上赤分校に残る旧校舎の柱が物語るかのように、機銃掃射痕から想起させられます。

突然引き裂かれた平穏

上赤分校近くの末光橋から峰岡地区をのぞむ

赤村に侵入した爆撃機は、峰岡地区にも爆弾を投下しました。投下された爆弾は焼夷弾だったようで直撃した民家を瞬く間に焼き尽くし、直撃を免れた家の壁に無数の穴を開け、付近には大量の破片が散乱していたそうです。

太平洋戦争末期、米軍が日本本土空襲のために開発した焼夷弾は、一つの爆弾が空中で破裂し、無数の弾となって半径数十メートルの範囲に散らばります。その弾は着弾すると瞬時に発火し、木造家屋を燃やし尽くすように作られました。その破片は今でも峰岡地区の地中から出土することがあると聞きます。

爆弾は田んぼに直撃し、そこには直径数メートルに及ぶ大穴が開いたそうです。今川に落ちた爆弾は数発あったらしく、その時の水柱はかなりの高さであったということです。丸熊地区にも爆弾は投下されたそうです。犠牲になった人は5人の死者と2人の負傷者を数えました。赤村に現れた爆撃機は、村史にはグラマンという比較的小さな戦闘機とありますが、目撃者の証言には大型機のB29だったと言う人もおります。

なぜ赤村に爆撃が?戦争遺産のメッセージとともに

そもそも軍需工場などのなかった赤村がなぜ米軍の標的となってのでしょうか。

この稿の冒頭に福岡や小倉の大空襲についてふれましたが、これらの後の終戦間際に起きた赤村の空襲は、小倉の大空襲から難を逃れた軍需工場の一部が疎開してきたことがわかっています。その疎開先は現在の赤小中学校で、米軍の目からも目立たない場所で工場を稼働させていたということです。

この疎開した軍需工場を標的として、赤村を目指し一部の編隊が偵察に来ていたというのが事実に近いのかもしれません。爆弾を落としたのも、警告のひとつだったのかもしれません。

平和な現代社会では実感のない話と言わざるを得ませんが、赤村には以上のような悲惨な歴史があります。それは旧校舎の柱に残された機銃掃射の跡と、村内に今も残る防空壕が私たちに語りかけてくれます。

発見された焼夷弾の一部
上赤分校にある旧校舎の柱
赤村に残る防空壕

また、赤村では一部の地区で防空壕が残っております。聞き取りでは終戦直前まで掘り進められていたと記憶していた方、親戚から聞いたという方がいました。

時代が変わりましたが、命の尊さは変わることがありません。十五日の終戦の日には先に示した犠牲者の方々のご冥福を祈るとともに、今私たちが平穏に暮らせることを感謝しつつ、いつまでも平和であることを祈りたいものです。(空襲の詳しい内容は、『赤村史』に記載されておりますのでご参照ください。また、ご多忙の中貴重な時間を割いて、聞き取り調査に応対してくださった村民の方々にこの場を借りまして心より謝意を申し上げます。)

コメント

タイトルとURLをコピーしました