炭鉱(ヤマ)の光と影 筑豊炭田年代記

Blog 筑豊見聞録
住友忠隈炭礦

石油は、ガソリンやプラスティック用品など私たちの生活のエネルギーとして関りが深い。石油が生活必需品となる前に、燃料としてここかしこで使われたいた石炭は、今火力発電など一部でしか関りがなくなってしまった。

その石炭、年配の方はまだなじみのあるところも多いかもしれないが、子育て世代を中心とした若年層にはほとんと関りがなく、この日本にも炭田があったことも知らないという人も少なくない。筑豊では黒ダイヤというキャッチフレーズのみが普及するものの、そこに秘められたストーリーまではあまり知られていない。

その一方、炭坑在りし日の栄華を華々しく伝えるものが多い一方で、その影に隠れがちな歴史的事実に焦点を当ててあるものが少ない。

そこでこの稿では、筑豊炭田という巨大な文化遺産に親しみをもってもらうため、その大まかなストーリーを年代記風に書き示し、あわせて華々しい栄華の影に隠れがちな部分を先人たちの教訓としてまとめてみたい。

自由な石炭採掘、そして「撰定鉱区」によって発展した筑豊炭田

中世に「燃え石」とか「焚き石」という呼び名で知られていた石炭は、江戸時代には藩の統制のもとで商品化され、藩政を財政面から支えていた。筑豊では瀬戸内地方の製塩業へ燃料を供給する貴重な役割を果たしていた。(⇒焚き石から石炭産業へ

明治維新後、新政府は北海道や福岡県三池(現在の大牟田市あたり)の炭田を官営として、西洋技術の導入を積極的におこなうなど、かなり先進的なところがあった。

一方、同時期の筑豊は「自由掘り」とされ、誰しもが石炭の採掘ができるしくみとなっていた。このために中小の炭坑が乱立し、乱掘のための弊害に悩まされた。

そのような状況の中、三池鉱山局のイギリス人鉱山技師ポッターによって、筑豊炭田全域の石炭層埋蔵について科学的な調査をおこなった。それは明治10(1877)年のことで、この結果下新入村(現在の直方市新入)あたりに有望な鉱脈があるとわかり、福岡県も本格的な調査を始めた。

これまでの認識を根底から覆すような結果に、政府も本格的な技術導入と資本の参入を促すことが必要となった。そこで制度化されたのが「撰定鉱区」である。

撰定鉱区位置図(『麻生百年史』より)
撰定鉱区一覧(『麻生百年史』より)

この制度は、最小でも19万坪に及ぶ大きな借区(当時の政府は、石炭を国有の財産としていたため国から借りるという形式)を設け、筑豊一円に34の鉱区を設定した。

これだけの面積に及ぶ鉱区を担い、利潤を上げるためには大きな資本や労働力が必要となる。このため、今で言う零細企業や個人経営的な体制での運営は困難となった。こうして中小坑の乱立を淘汰し、代わって台頭するのは筑豊御三家と呼ばれる在地の有力者と、後に財閥と呼ばれる中央資本の参入を招いた。

産業革命のなかで 筑豊御三家と財閥

こうして筑豊には、ヒトとモノ、そしてカネをも集中させるパワーを得た。このことは急速な近代化へと動き出す。

それは炭坑内では、明治14(1881)年に杉山徳三郎によって導入されたポンプ揚水をはじめとする蒸気機関や掘削用機具、そしてそれまでのいわゆるタヌキ掘りから、長壁式という掘削法が取り入れられ生産性が向上した。炭坑の外には、巨大な竪坑や煙突、コンクリートの構造物が所狭しと軒を連ね、鉄道が坑口から港までつながってゆく。

三菱方城炭礦竪坑櫓(現在の福智町)
日鉄二瀬炭坑(現在の飯塚市)

こうした技術革新は、明治20(1887)年代から30(1897)年代にかけて勃興し、日本の産業革命の一コマとされることもあり、筑豊御三家とのちの財閥となる三井、住友、三菱など大手が中心になって導入された。

筑豊御三家を筆頭とする在地の有力者たちは、既得の炭坑をもとに撰定鉱区の大半を掌中にし、中小の炭坑乱立や乱掘などの弊害から統一的秩序を目指し、明治18(1885)年筑前国豊前国石炭坑業組合(のちの筑豊石炭坑業組合)が創立された。

巨大な撰定鉱区の設定によって参入の機会を得た財閥は、住友忠隈炭砿(飯塚市)、三菱飯塚炭礦(飯塚市)、三井田川鉱業所(田川市)、三菱方城炭礦(福智町)へと進出した。

三井田川鉱業所(田川市・現在の石炭記念公園)
住友忠隈炭砿

おりしも遠賀川の河口から数キロの距離に、八幡製鉄所が明治30年ごろ設置が決定し、その4年後となる明治34(1901)年には操業を開始。当時の国家プロジェクトともいえる製鉄所、用地選定の決め手となったのが、その背後にある良質な石炭の産出が見込めた筑豊炭田であった。

一方で官営製鉄所は、八幡製鉄所へ直接燃料を供給する基地としての役割を求め筑豊に進出し、製鉄所二瀬出張所(のちのに日本製鉄㈱二瀬炭鉱)を開発した。この過程で生まれた竪坑櫓のうち、三菱方城炭礦、三井田川鉱業所、日鉄二瀬炭鉱の竪坑は、日本3大竪坑と呼ばれ近代日本の資本主義、産業革命の発展を象徴するものとされた。

炭坑が生み出した光と影 黒ダイヤに秘められたメッセージ

筑豊炭田炭坑案内図(昭和28年)

在地の有力者や財閥など巨大な資本が集まることで、生産高は飛躍的に上昇し、明治30年ごろから明治40(1907)年の間、筑豊炭田の産炭量は全国のそれの半分を占めるまでになった。

こうした繁栄は、筑豊各地に成金と呼ばれた羽振りのいい人たちや、ゴールドラッシュ的な好景気を求めて人々が集まってきたり、炭坑を中心とした街が生まれ、芝居小屋や商店街、歓楽街などが軒を並べた。

陸蒸気ともよばれた鉄道は、各炭坑から本線へと結ばれ、それまでの川ひらたによる水運から蒸気機関車による陸運へとの転換を加速させた。昼夜分けずして石炭を満載した列車が行き来した。

こうした好景気、繁栄は大きな力と華々しい光を放つ反面、その影の部分も存在感を示してくる。

それは、坑内が深くなることにつれて発生件数が顕著になり始めた炭坑事故、坑内災害で、明治30年頃からその件数が急増した。産業の伸展は時として未知の局面を生み出し、炭坑では坑内火災、ガス爆発、出水事故などそれまではさらされることのなかった脅威に直面することになる。

大惨事として知られるものをあげると、大正3(1914)年に発生した「方城大非常」とよばれる三菱方城炭礦ガス炭じん爆発事故や、昭和40(1965)年山野炭鉱(現在の嘉麻市)ガス爆発事故などがある。ともに数百名の犠牲者を出したことで知られる。

災害は坑内のみならず、炭坑の外にも影響を与えた。各炭坑での洗炭作業による遠賀川の汚染や、坑道拡張による落盤は鉱害という事象を生み出し、現在も苛まれている人々もいる。

また利潤を追求するあまりに、海外から強制的に労働力として連行された強制労働も生じた。

資本主義がもたらすのは、豊かな暮らしであるとともに、その影につきまとう影の部分がここにはある。筑豊炭田遺跡群は近年国史跡として指定され、日本を代表する文化遺産のひとつとして仲間入りを果たした。近代日本の発展過程でとても重要であるのはご存知だろうと思う。その反面、繰り返してはならない教訓も、そこにはある。

筑豊炭田、今や忘れ去られてしまいがちな部分もあるが、そこに耳を澄ませば現代に生きる私たちにも学ぶべき教訓がメッセージとして込められている。

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