障子ヶ岳という筑豊の低山で、手頃に楽しめる登山・歴史・自然

Blog 筑豊見聞録

筑豊地方は山山に囲まれた地域で、近くには気軽に軽いトレッキングが楽しめる場所や低山がたくさんあります。

ここでは障子ヶ岳という、これも片道1時間程度で楽しめる登山道を紹介します。アクセスも比較的わかりやすく、マイカーでも登山道までいけます。そんな障子ヶ岳の楽しみ方をまとめてみました。

障子ヶ岳といえば山形県の朝日連峰を思い起こす方も多いでしょう。それと比べれば遥かに低い、福岡県の障子ヶ岳ですが、オリジナリティ豊かな低山の魅力を感じ取ってみてください。

障子ヶ岳へのアクセス

標高427.3mの低山障子ヶ岳は、田川郡香春町と京都郡みやこ町の境界に位置しています。

周辺には県道64号線があり、行橋方面と田川地域を結ぶ主要道となっています。その県道上に味見峠という古来からの往来を示す場所があり、この近くには桜の名所としても知られる味見桜公園があります。

この公園には、車でのアクセスが可能です。

国道201号線を金辺橋交差点で県道64号線に入ります。この県道をさらに1㎞程行橋方面に走らせると、左側に旧道に入る入口が見えてきます。そこを左折すると程なく車が来できる幅員の砂利道(林道)が見えてきます。その砂利道をしばらく進んでいくと公園に着きます。

この公園内に障子ヶ岳に続く登山道があります。

味見桜公園

近くにある七曲峠と同じように、桜の名所として知られるこの公園、その地名が珍しいと思った方も多いかもしれません。

付近には味見峠という交通の難所として知られていたと、案内板に記されています。

それによれば、古くは採銅所から宇佐八幡宮に奉納される御神鏡(銅製の鏡)を運ぶ際に、一行が通った場所であったとか、修験者も行き来したとあります。

さて、地名の由来については以下のような内容がありました。

①辺り一帯が勾金荘と呼ばれ、宇佐八幡宮の所領を管理していたのが安心院(あじむ)氏であったことにちなんだ。

②障子ヶ岳と竜ヶ鼻(北九州市)の間の鞍部(あんぶ)と呼ばれ、これにちなみ馬の鞍の古語である「あじむ」を語源とする。

③かつて採銅所中野に魚市場があり、京都郡をはじめ周防灘からの新鮮な魚を仕入れて運び入れる時、この地あたりで味見をしたことに由来する。

どれも興味深いお話ですが、地名一つでここまで話が膨らむとはちょっと驚きです。それだけ古くから人々の関わりが深かった場所なのでしょう。

登山道

きれいに整備された登山道は、入口から山頂までわかりやすい上に歩きやすいので、初心者にも安心です。

登りの傾斜は入口から入って数分程度のところからややきつめの傾斜となり、途中で緩やかな登りが続きます。山頂付近になるとお城であることを物語るかのように、きつい傾斜が続きます。

登山道はゆっくり歩いても1時間かからずに山頂に到着すると思います。桜の咲く頃に車で行って、登山を楽しみ、山頂でお弁当を楽しむのにピッタリな場所です。

興味のある人は、道中の会話に山城についてふれてみてはいかがでしょう?以下に障子ヶ岳城の話を簡単にまとめておきます。

障子ヶ岳城とは?

岡寺 良 編 『九州の名城を歩く』2023年(吉川弘文館)より

障子ヶ岳城は、豊前国田川郡と京都郡の郡境である南北方向の稜線上、障子ヶ岳山頂に位置しています。別名を勝司嶽城ともいい、四方に眺望がよく、東は周防灘、西は香春岳、南は飯岳山、北は平尾台周辺を見渡す環境にあります。戦国時代、この環境を利用し、戦略的拠点として山城が築かれたようです。

山城の歴史

「京都郡誌』(伊東尾四郎1919年)所収「豊前古城記」に、障子ヶ岳城について、建武三年(1336)に足利尊氏の命により足利統氏が築城したという。

応安元(1368)年には、千葉上総介光胤が足利統氏を討って居城としたが、その後は周防の大内氏の支配下となった。天正年間(1573~92)には小早川隆景の勢力下にあったが、のちに破却しされたようです。

小早川家文書や黒田家文書に残る豊臣秀吉書状などによると、豊臣秀吉が九州平定の軍を九州に派遣した際には、天正十四(1586)年十月三日に、毛利輝元・黒田孝高・吉川元春・小早川隆景の軍勢が先鋒として関門海峡を渡り、翌四日には小倉城の攻略に着手。十一月には内陸の田川郡に戦局が移っていったことが物語られています。

その記録の続きには、十一月十五日、小早川隆景・黒田孝高が香春城の支城である障子ヶ岳城を降し、高橋元種の籠る香春城を包囲した。抗戦を続けた元種も十二月十五日には降伏したとあります。

城の縄張り

障子ヶ岳山頂一帯に展開する本城部は、みやこ町指定文化財(史跡)となっています。近年の福岡県教育委員会の調査では、田川郡と京都郡の郡境の稜線上、本城部の北側約2.5㎞の範囲に九ヵ所、本城部の南側約500mの範囲に二ヵ所、周辺城館群が確認されていると報告がありました。そのあたりを少し詳しくお話しましょう。

本城部
福岡県教育委員会編『福岡県の中近世城館跡Ⅲー豊前地域編ー』2016年より

障子ヶ岳城の山頂の南北に延びる稜線上、東西約20m・南北約200mの範囲に五段に連なる曲輪I~Vを配置しています。

南端の最高所である標高427mを測る曲輪Ⅰが主郭と考えられ、北側に向かって段状に下がるⅡ〜Nの曲輪が連なっていることがわかります。本丸に向かって一連に郭が連続する城の形は、連郭式と呼ばれます。

主郭である曲輪Ⅰの南西側には現存深さが約10mを測る非常に大きな堀切dを掘削し、堀切の堀底から曲輪Iとの比高差は約20m以上を計ります。

出丸から、堀切d、本丸方向をみる

堀切二本により主郭の南西方向の尾根線を遮断し、主郭南東側にも長大な堀切eが構築されていたり、曲輪Ⅰ東側の土塁は屈曲して南東方向に張り出し、その下方の南東尾根は堀切三本で分断してあるなど、お城の主要な部分を中心に厳重な防御が施されているのがわかります。

周辺施設跡について
福岡県教育委員会編『福岡県の中近世城館跡Ⅲー豊前地域編ー』
2016年より

先述の本城部からの延長した南北稜線上の頂部を中心に、A~K地点の計11カ所の平坦部が確認されると報告にあります。

その多くが堀切などの防御遺構を設けず、小規模な曲輪をいくつも連ねたものです。その大きさは、全長約40~150m程度を測り、大小さまざまであることがわかります。各地点間の距離は約300m、稜線上の自然の平坦地形を最大限に活かし、最低限の造成をおこない主要部の防御を高める働きがあるようです。

唯一、北端のK地点には稜線上に全長約300mを測る規模で曲輪群が展開しており、ここだけは堀切三本・土塁等の防御遺構も確認できたということです。

これら周辺城館群は、その構造などから恒常的な在城を意図して造られたものではなく、一時的な兵の駐屯を目的とした「陣城」であると考えられています。

おわりに

今回の散策、登山ルート

春先や秋口のトレッキングコースや採銅所界隈の散策を含めて楽しめるのが、今回の味見峠~障子ヶ岳の登山ではないでしょうか。

桜の咲く頃の花見ついでに、山城跡を実際に歩いて体感しながら、趣のある歴史話に華を咲かせることができます。

軽いウォーキングで健康増進を兼ねた余暇の過ごし方を充実させてみませんか?

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