直方の知られざるパワースポット 鳥野神社、須賀神社

Blog 筑豊見聞録
鳥野神社本殿

直方に来たらぜひ立ち寄りたいパワースポットを、何回かに分けてお伝えしたいと思います。

直方市民から親しまれる場所や、不思議な由縁も感じるスポットも…直方市民に最も親しまれた古社といえば、多賀神社が真っ先に思い起こされますが、その他にもオススメしたいパワースポットがいくつかあります。

クリーンなエネルギーチャージや心のデトックス、不思議なみどころ見物にご活用くださいね。ここで紹介するのは興味深い由緒がある鳥野神社と、世界最古の隕石を所有する須賀神社の二つです。

鳥野神社

鳥野神社は、直方市東方の山麓、內ケ磯ダムのそばに鎮座する。

白鳳期(七世紀後半)、英彦山修験の流れを汲む釈教順が中嶽(福智山)山頂に福智権現を祭祀したことに由来するという。

福智山は筑前・豊前の国境に位置することから、かつて両国により福智権現が祀られていたが、天正年間(1573〜92年)に分社された。山頂には現在も、鳥野神社(筑前側)・福智中宮神社(豊前側)の上宮の祠がある。

慶安年間(1648〜52年)、現在地に本殿が造営された。

神使いは鳥とされており、明治三十九(1906)年に鳥野神社に改称。

福岡藩三代藩主・黒田光之や直方藩四代藩主・黒田長清らによる再興の記録もあり、武将の信仰が篤かったことが窺える。

古くから遠賀郡、鞍手郡、嘉穂郡20000戸の五穀豊穣を司る神として崇められた。

日本武尊の残した伝承

祭神の中に、保食大神(うけもちのおおかみー食物神)、軻遇槌神(かぐつちのかみー火神)、天照大神(あまてらすおおかみー日神、農耕神、機織りの神)、月読大神(つくよみのおおかみー月神、農耕神)の名が見えるが、それらが最初に祭られた神だろう。

景行(けいこう)天皇の御代になると、日本武尊(やまとたけるのみこと)が熊襲討伐のために当地にやって来た。

熊襲タケルには弟に金剛タケルがいて、福智山の北にある金剛山麓に集落を営んでいた。日本武尊は金剛タケルを討伐するために、福智山に登って国見をした。この時、神の験(しるし)を感じ、勝利を祈願したという。

日本武尊は金剛タケルを討伐すると、続けて熊襲タケルを討伐した。凱旋すると、再び福智山に登ってお礼参りをし、この上中下宮の三宮を創立したという。

鳥野神社はそれ以来「衣食の神」「西の鎮守の神」として、朝廷を始め、多くの人々の信仰を集めている。

日本武尊の子の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の御代には、神功皇后(じんぐうこうごう)が武内宿禰と共に当山を訪れて戦勝祈願をした。いくつもの戦いで勝利をおさめた神功皇后は再び当山を訪れて、鳴鏑矢(なりかぶらや)を山上に納めたという。

ご来福しよう 福岡県制作より

拝殿まで続く石段、参道の周囲は深い緑に囲まれ、森林浴にも最適です。時折差し込み日差しにはどこか高い波動を感じます。家内安全、疫病退散などの祈願に適したパワースポットです。

須賀神社

直方の須賀神社の御祭神は【主祭神】 素盞嗚尊(スサノオノミコト) で 【配祀神】 保食神(ウケモチノカミ) 、吾勝尊(アカツノミコト)となっています。また、三の鳥居の額は「祇園社」となっているので、 元はは「祇園社」と言っていたようです。

一般的に 須賀神社(すがじんじゃ)は、牛頭天王・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする祇園信仰の神社です。

wikipediaなどによると他に祇園信仰に基づく神社名称としては、八坂神社(八阪神社・弥栄神社)、祇園神社、広峯神社、天王神社、八雲神社、素盞嗚神社があるそうだ。

御由緒

 当社は今からおよそ一三五〇年前の舒明天皇の御代(七世紀前半)岩熊麻呂が神憑を蒙りこの地に素戔嗚尊をお祀りし武徳神社と号したのがその始まりであります。 その後貞観十五年(八七三年)には社号を祇園神社と改めましたが、境郷の総鎮守として人々の尊敬最も篤く神仏習合の社として人々の信仰の中心として永く尊崇を集めてきました。 その間貞観三年(八六一年)には当神域に隕石の落下を見たり、建武三年(一三三六年)には建武の板碑の建立があるなど数々の歴史を閲してきたのであります。 明治以降は社名も須賀神社と改まり神苑も拡張され桜の名所としても賑わいを見せてきました。 御神徳は国家安泰、家門繁栄、無病息災、開運厄除、五穀豊穣、商売繁盛、学業成就等広きにわたり人々の生活と安全を守護し給うているのであります。

福岡地域別探検 よかとこBy福岡県より

世界最古の隕石

 須賀神社は、直方の市街地から南東方向にある住宅街の下境地区にあります。 目撃記録のある隕石としては世界最古とされるものが、この神社に保管されているということです。

 貞観3年4月7日(ユリウス暦861年5月19日)の夜、武徳神社(今の須賀神社)境内に隕石が落下したと記録されます。 翌日に深くえぐられた穴の底から黒く焦げた石を掘り出して桐箱に納めて保存したと言う地元の伝承があり、 今も天から飛来した石として、丁寧に桐箱に納めて保管されています。

桐箱の蓋(ふた)の裏には「貞観三年四月七日ニ納ム」という墨書があるのです。 ちなみに貞観三年は西暦861年です。

 wikipediaなどによると、

貞観3年4月7日の夜、武徳神社(今の須賀神社、地図)境内に落下し、その翌日に深くえぐられた土中から黒く焦げた石が掘出され、それを桐箱に納めて保存したという地元の伝承が残っている。桐箱の蓋の裏には「貞観三年四月七日ニ納ム」という墨書がある(前述の、翌日納めたという伝承とは矛盾がある)。

1922年大正11年)に筑豊鉱山学校の初代校長・山田邦彦により隕石だと鑑定されたが、学術雑誌への発表がなく、山田の急逝により長く知られないままになっていたともいわれる[2]。須賀神社には大正13年3月の日付のある鑑定書の写しが現存する[2]

1979年9月19日、地元のラジオ番組「九州むかし話」で須賀神社に伝わる「飛石」の伝説[3]が紹介され、それを知った研究者により「須賀神社の『飛石』とは隕石落下の話ではないか」と考え、調査が開始された[4]国立科学博物館の理化学研究部長・村山定男らの鑑定により、世界最古の隕石落下目撃記録であると1981年になって認定された。

伝承や桐箱に記された年月日が正確であれば、落下の目撃記録がありかつ標本が現存する隕石としては、当時世界最古とされていた1492年落下のエンシスハイム隕石よりも古い世界最古のものと考えられたが、桐箱以外に年代を裏付ける史料や正確さを示す資料は発見されず、科学的手法による年代測定が試みられた[5]。その後、宮司の許可を得て桐箱の一部を削り取り放射性炭素年代測定を行ったところ西暦410±350年という年代が得られたため、世界最古の落下目撃隕石として正式に認められた[6]

直方隕石 より

 直方隕石は現在も須賀神社に保管されており、5年に一度、10月の御神幸大祭の際に一般公開されます(次回は2016年10月22-23日、その次は2021年)。現在では神社の境内に記念碑が立てられており、隕石のレプリカがあります。

隕石の一方で

 境内の拝殿の両脇には、神社には珍しい恵比寿様と大黒天が祀られています。その表情もにこやかで氏子様からの奉納でしょうか、それとも宮司様の趣向でしょうか…なんとも穏やかな気持ちにさせられます。

にっこり微笑んでいるところが可愛らしく、参拝に来る人々をにこやかさを与えてくれます。これだけでもご利益がありそう。

また、境内の隅の方には御神木と思しき巨木もあります。樹齢は定かではありませんが、自然のエネルギーを感じ、または畏怖の念を抱かせるようなパワーに満ちています。

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