踏切名は「爆発」!? 日田彦山線の忘れられないトンネル事故

Blog 筑豊見聞録
二又トンネル爆発事故直後の写真

夜明~添田間の運休が続く日田彦山線、先日BRT(bus rapid transit)化へと方針を固め、とりあえず復旧を目指すことになった。

この路線、いろいろと複雑な経緯で開業を果たした路線だが、その経緯の中でも忘れられない事故がある。

それは「二又トンネル爆発事故」。この稿は、この爆発事故をクローズアップし、次世代へとつなげる鉄道を価値ある資産とするため、忘れるべきではないエピソードをシェアしたい。

二又トンネルとは?そして、その事故とは?

事故現場近くの彦山駅
彦山駅から事故現場方面をのぞむ

時は太平洋戦争が終結した1945(昭和20)年。この当時田川後藤寺駅から彦山駅までは運行されていたもの、彦山駅から先はまだ開通していない状況だった。

彦山駅から南への線路は敷設されていたようで、途中いくつのトンネルは工事完了していた。このうち最も彦山駅に近い500mほどの距離にあったのが、今回ピックアップしている二又トンネルだ。

戦争末期、米軍からの攻撃から免れるべく、日本軍は山奥へと武器、弾薬を保管するようになった。その場所の一つがこの二又トンネルで、その量は500トン以上はあった。

戦時中にあって物資の供給が滞ったため、トンネル工事が完了したにも関わらず、列車は走ることがなかったこのトンネルは、恰好の弾薬庫となっていたようなもの。

戦争が終わった11月8日、進駐軍によってこのような武器、弾薬のありかを突きとめられ、二又トンネルの弾薬も処分されることとなっていた。米軍将校以下数名が立ち会いのもと、弾薬に爆発の危険性がないことを地元住民に説明した上で、焼却処分をすることになった。

その日の午後3時にトンネル内の弾薬に火がつけられ、1時間ほどして異常がないことを確認した米軍将校たちはその場を立ち去った。爆発事故が起きたのはそのあとのことで、トンネルの入口は火炎放射器のように、猛烈な勢いの炎を噴き出し、それからほどなく山全体が吹き飛んでしまう。

この爆発で周辺の住民に大きな被害がおよび、死者147人、負傷者149人を出す大惨事となってしまった。

二又トンネル爆発事故現場付近

二股トンネルの大爆発

終戦から3か月になろうとする昭和20年11月12日の夕方だった。突然南側の彦山の方面で大きな音がしたかと思うと、真っ黒な煙がもくもくと上がり始めた。そのうち、けたたましくサイレンが響き、なにやら大爆発が起こったようだと分かったが、それは想像をはるかに超える大惨事となった。

田川線彦山駅から南に約400メートルのところに、落合の二股トンネルがある。その中の火薬庫が占領軍により点火され、数回にわたり小さな爆発を起こした。そして17時20分ごろ大爆発となった。

静かな山あいは一瞬のうちに、生き地獄と化した。円山は真っ二つに裂け、線路はぐにゃぐにゃ。半径一キロ以内の民家と山林田畑が全壊した。悪いことに、この時間のちょっと前、彦山駅に列車が到着したばかりで、乗客が家路を急いでいた。

この列車は行橋を15時19分に発車、添田を16時54分に出た。豊前桝田駅を17時02分の定刻どおりに出発して2つのトンネルを抜け、彦山駅には17時13分に到着した。勤め人や学生はもとより、地元の人たちや駅員なども、爆風と上空数百メートルに吹き上げられ落ちてきた、瓦礫や岩石に直撃された。筆者の親類の女学生もなくなった。

この爆発事故で死者144名、被災者が347人、損壊した家屋が48戸にのぼった。山の土砂で彦山川はせき止められてしまった。爆発前の円山の頂上には御伊勢堂が鎮座し、お堂の前の広場ではお祭りも行われ、牛の背中のようなこの山は、いつも静かに山里を見下ろしていた。

添田町落合警防団第四分団は、初め火薬が爆発して吹き出た火で、現場近くの農業平尾代志美さんの屋根が燃えたので、大急ぎで消火作業をしたところ、その後の大爆発により、12名が土砂に埋没、5名が死亡、6名が負傷した。

この大惨事の発生に対処し、添田警察署、消防団員が緊急出動し小倉駐屯の占領軍のトラック4台もやがて現場に到着、近隣の町民の炊き出しなども行われた。

負傷者は近くの落合国民学校、古河鉱業の峰地病院、宮城病院などで手当した。また、多数の埋没者は添田・大任の警防団や田川中学・農林などの生徒による懸命な掘り出し作業が続けられた。

現場は田川郡彦山と朝倉郡宝珠山を結ぶため、昭和14年国鉄が着工したトンネルで、長さ150m。ここには旧日本陸軍の弾薬庫として火薬(三号帯状五三万三一八五キロ)が雷管、真管とともに保管されていた(佐々木盛弘氏)。その爆発エネルギーは実に20万立米とも。

水上昭和 『母なる彦山川 故郷の歴史的価値と太平洋戦争』(創英社/三省堂書店 2015年発刊)より
事故直後の画像とほぼ同じアングルから

事故の事実が風化してしまう危機

爆発踏切(引用元:https://y-ta.net/bakuhatsu-fumikiri/
爆発踏切(引用元:https://y-ta.net/bakuhatsu-fumikiri/

二又トンネルの事故について、その概要はおわかりいただけたのではないでしょうか。

その事故を忘れることのないように、事故現場の付近には慰霊碑も建立されている。そして、タイトルの「爆発」という踏切も、当時事件に関わりのあった人々が忘れえぬものにしようという願いのもと、命名されたのではないでしょうか。爆心地にも近いところに位置するこの踏切は、交通の便のためというよりも、慰霊碑と同等な役目を担って生まれたように思えてきます。

現在運休となっている区間の中にあるこの踏切、列車が走ることもなく、そしてBRT化し交通機関として復旧することになれば、この路線上をバスも通ることもなくなるかもしれない。

バスの利便性を考えれば、現在の路線をそのままバスが走行するとは考えにくく、むしろ停留所などを追加し迂回する経路となれば、この踏切を通行することは回避される可能性が高くなります。幅員の狭く安全面からもこの踏切付近を通行することは、現実的ではないとされるでしょう。

となれば、事故の記憶が今よりももっと忘れ去られてしまうことになってしまいます。もちろん賛否があると思いますが、身近で起きた戦争にともなう犠牲を次の世代に橋渡していくことをないがしろにすべきではないのでしょうか。

現代の私たちは、先人たちの受けた経験や苦い記憶、凄惨な事実によって、成熟した社会の中にあります。平和を脅かす武器や弾薬、人が作るものでありながら、人を殺めてしまうという矛盾、このことを伝えていくための大きな教訓として見直してもらいたいのが、この踏切ではないでしょうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました