低山歩きと山城巡り ひとつで二度美味しい戸城山城

Blog 筑豊見聞録
戸城山(中央部)をのぞむ

山に囲まれた筑豊地方は山城が多い。かつ、昔から筑前、豊前という二つの国の境界にあり、砦や出城も含めると正確な数ははっきりとしない。

ここでは赤村の戸城山城にスポットを当て、登山でも親しまれている戸城山に触ふれてみたい。

山城のはじまりとその歴史

田川郡赤村内田に所在する。この位置は筑豊地域と豊前地域の境目にあたり、香春岳城、馬ヶ岳城、岩石城を結ぶ重要なところにある。

戸城山城縄張り図(出典元:『福岡県の城郭』)

山の頂上部には、頂上から東西にいくつかの曲輪が並び、その周囲を横堀と無数の竪堀群が張り巡らされ非常に防御力の高い構造をしている。特に、南側は二重の横堀となり、北側は非常に高い土塁を築き上げている。

城郭を巡る横堀

延元五年・暦応三年(1340)に菊池武重・武俊が率いる軍が豊前に侵入し、各地を占拠したが、そのとき赤村内田の戸代山(318m、戸城山とも書かれる)が攻防の拠点となった。

ここは平成筑豊鉄道の油須原駅の北側。この七年前の元弘三年(1333)には鎌倉幕府が滅亡している。

本丸が南北27メートル、東西18メートルの広さ。本丸の北東にかけて曲輪跡が続くが、とりわけ城台の周囲にある深い 三重の空堀と連続した竪堀が発達しており、典型的な連郭式の山城として知られている。

山頂付近(戸城山城二の丸)
山頂(戸城山城本丸)

築城の時期は鎮西の南朝の雄、菊池肥後守武重の延元四年・暦応二年(1339)ごろ。南北朝時代と呼ばれ、全国の武将たちが北朝方、南朝方に分かれ、大小の戦闘が絶えなかった時に築城された。

天正一五年(1587)九州征伐の際、秀吉が岩石城を攻めたとき、ここから観戦した。これに先立ち攻略されたのがこの城で、戸城山城は香春岳城、岩石城と並んで豊前での三名城ともいわれた。

秀吉の先遣隊として派兵された黒田官兵衛から攻略され、城主の馬屋元有は降伏したが、許されず最後は討ち死にした。その後、文献などに残る記録もなく、破却されたと考えられている。

低山としても楽しめる戸城山

県道からの登山口

戸城山への登山道は三つ、汐井谷からのルートと、大内田からのルート、そして県道行橋添田線バイパスからのルート。平成筑豊鉄道油須原駅から徒歩で5分ほどの距離にあるバイパス口からが、もっともわかりやすい。

どのルートも中級者向けで、標高317mの低山とはいえ山頂付近の傾斜はやや険しい。やはり山城ゆえに人々の行手をはばむようだ。

山頂あたりの傾斜面

山頂からは360°全方位を眺められ、眺望は素晴らしい。これも山城ゆえ、郡の境を見張るための立地が今に生きていると言える。

山頂からみた岩石山
山頂から東側、みやこ町、行橋方面をのぞむ
山頂から北側、左に香春岳、右に大坂山

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