ボタ山 今なお生き続ける筑豊のシンボル

Blog 筑豊見聞録

ボタ山とは主に石炭採掘の過程で不必要な石炭ほか石などを捨てた山と定義される。現在では北海道、九州北部と福島県の常磐地方にその言い方が残り、もともとは俗称として「ズリ」と呼ばれていた。「ボタ」という言い方は九州北部の発祥ではないかと考える人もおり、北海道などでは「ズリ」という言い方の方が馴染みを覚える人が多い。

筑豊に来ると必ずと言っていいほど、ボタ山という語句を目にしたり、耳にしたりすることがある。そこにはどんな背景があるのだろうか…

忠隈(飯塚市)のボタ山

筑豊に暮らす人たちには「ボタ山」と聞いて何かと説明を求められても、簡単なことなら答えられる人が多いと思う。しかし、それ以外の地域に暮らす人たちからすれば、初耳と言われることがほとんどかもしれない。何を隠そう、これを書いている私も東京暮らしを10年ほど経たのち、仕事の都合でここ筑豊の地に移り、「ボタ山」と耳にしても何のことかまったく想像できなかった。年配の人々ならまだしも、若い世代でも知らないという人は結構多いのかもしれない。

そのボタ山、多くは宅地造成、工業団地など開発の影響を受け、姿をかえてしまったものがほとんど。しかし、当時から開発などの影響を受けることなく、原型をとどめているのが飯塚市にある。

それは旧住友忠隈炭礦のボタ山。当時財閥として名高い住友に買収される前は、あの筑豊御三家の一人麻生太吉が経営していたことでも知られる。現在は閉山より半世紀の時が過ぎ雑木林に覆われてしまったものの、往時の姿同様3つの峰を眺めることができる。炭坑に直接かかわりのなかった世代や小中学生からも「忠隈のボタ山」として親しまれている。3つの峰の標高は、141.3m、113m、138.5m、周囲は約2キロほどの距離の範囲にわたっている。円錐のように整った美しさから、俗称で「筑豊富士」とも呼ばれることがある。

忠隈(飯塚市)のボタ山

炭坑の坑内から出るボタは、明治・大正期は炭坑敷地内のくぼんだ土地や狭小な谷に捨てられていた。それが近代的な機械化にともない出炭量も増加し、しだいに地上から山のように積みあがっていったという。ここにはベルトコンベアーをはじめとする西洋の技術導入が背景にあり、列強諸国と肩を並べる急成長をみせたという証拠と言える。それゆえボタ山と呼ばれるものは、おおよそ昭和に入ってからの産物となる。

それからわずか30年ほどで、かくも巨大な人工のヤマを作り出した人々のエネルギーの結晶でもあり、こうした意味からも文化遺産、産業遺産としての価値がある。その上、出生当初からほぼ変わらない姿の忠隈のボタ山は他に類例は少なく、ボタ山として説明するとほとんどの人が理解できるわかりやすさも相まって、その歴史的価値は高い。

炭坑なき今も生き続けるボタ山

その価値もさることながら、ボタ山に親しみ育ってきたこの地に暮らす人々からは、筑豊のシンボルの一つとして位置づけられている。こうした人々の思いが、バラエティに富む創作へとつながっている。

その一例としては、忠隈のボタ山のすぐ向かいには、「ネロ・ボタニカル」というユニークな外観の建物がある。内部は3階建てのテナントビルだが、その外観は向かいにあるボタ山の景観にちなみ、ピラミッドの底部を思わせる台形状、色調は黒味のつよいグレーの塗装となっている。中にはもつ鍋、すしなどの店が軒をならべ、筑豊でのおもてなしの一つとなっている。

焼肉ボタ山(福智町)

このほか、「ボタ山」という看板で焼肉屋を営んでいるお店や、ボタ山カレーやボタ山うどんなど、ご当地グルメとしての地位を指向したものもある。これらだけにとどまらず、西日本最大級の少年バスケットボール大会の「ぼたやま杯」、少年野球の大会として「ボタ山旗軟式野球大会」と、そのネーミングに忠隈のボタ山をモデルとしたものもある。つまり、ボタ山は炭坑なき今でもそこに暮らす人々の心の中で生きている。それだけ存在感と親しみを覚える人たちが多いのが、忠隈のボタ山なのだろう。

ボタ山うどん

筑豊で暮らしていると何かと炭坑という今はなき事実に出くわす。それは単にいたるところに炭坑が乱立した過去だけでなく、その時代に生まれた文化や風習が根強く生きているためではないか。そして、そのひとつに人々の暮らしに身近な存在となっている忠隈のボタ山がある。炭坑で育まれたものが、炭坑なき後も人々の暮らしと心に身近な存在となり、そこが大きな筑豊の魅力となっているのかもしれない。

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コメント

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