神話を訪ねる旅 神功皇后の足跡を追って 飯塚へ

Blog 筑豊見聞録
嚢祖八幡宮(引用元:ご来福スポット)

神功皇后は福岡県内各地に言い伝えを残している。筑豊地方にもたくさんあり、正直なところ数えきれないくらいだ。そのなかでこの稿では飯塚に今も伝わる、神功皇后の伝承地を紹介します。

飯塚の地名に関わる言い伝え

嚢祖八幡宮(引用元:ご来福スポット

飯塚の地名、それは以下のようなエピソードがある。

神功皇后が朝鮮半島からの戦役を終え、ショウケ越しから大分八幡宮で軍隊を解散し、兵士たちとの分かれた。

それでも分かれを惜しむ兵士たちは、東へと向かう皇后についてきた。現在の嚢祖八幡宮あたりまでいたった皆は、別れの宴を催した。

このとき、人々が「またいつか尊顔を拝し奉らん」と口々に言い、この「いつか」が「飯塚」の名の由来であるといわれ、今日にいたっているという。

突然の来訪 稲築にて

嘉麻市稲築にも神功皇后の言い伝えは残っている。

稲築八幡宮

東へと向かう皇后は、神功皇后は、子(応神天皇)とともにこの稲築の地で一休みした。前もっての連絡げある訳でもなく、突然の立ち寄りに人々は慌てて、座布団替わりに収穫したばかりの稲でもって座敷としてもてなしたというもの。

「稲で築き上げた」という故事にならったために、稲築の地名が生まれ今日にいたっている。

峠越えの前に 庄内にのこるエピソード

綱分八幡宮(引用元:発掘ばい♡九州古代ヘリテージ

これ以外にも飯塚市の庄内地区に残る言い伝えも面白い。

金石山のふもとの金丸村(今の綱分付近)でお休みになられた。その時、峠の通行の安全を祈願したためであろうか、皇后がお産の時に用いた御綱(産み綱と思われる)を祀ったとある。

産み綱とは、古い時代のお産の時、高いところから吊るした綱にしがみつき、力むことで安産を助けるための道具。これを分けてしつらえた斎場に奉納し、天神地祇を祀ったという。

この話は、庄内地区にある綱分八幡宮に伝わっている。社名も「綱分」とあるので、この故事にあやかって信仰が集まったものであろう。

御偉功にあやかって 地名や信仰へ

神功皇后は、仲哀天皇の妻にあたり、天皇が橿日宮(かしいのみや、現在の香椎宮あたりか)で崩御しその後を引き継いで朝鮮半島へ渡海。これがいわゆる「三韓征伐」と言われる戦役で、戦わずして平定したとされる。

この戦役後、身ごもっていた皇后は、宇美八幡宮あたりでのちの応神天皇を生んだ。応神天皇は西暦300年末から400年にかけて実在した王とされ、大陸から先進技術をもって治世をした。

こうした伝説的な御偉功にあやかって、八幡信仰のもと地名とその由来をそれぞれに地にかこつけたようなところがある。そうは言いつつも、どこかミステリアスでさらに好奇心を掻き立てるような言い伝えには魅力を感じずにはいられない。

そう考えれば、ここで紹介した3つの神社は、未知のパワースポットかもしれない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました