前回は、仲哀天皇にまつわる話をして、香春町からみやこ町にかけての地名仲哀峠などについてふれた。仲哀天皇が崩御し、その後神功皇后はどのような足跡を残したのか。
仲哀天皇を失った神功皇后は、その悲しみに耽るまもなく朝鮮半島に出征。このとき日本書紀などの記録では、こともあっさりと平定し帰国の途につくと記している。
実は、仲哀天皇が崩御する以前に神功皇后は実は身籠っていた。産気づかないようにするため、お腹に石を抱いてまで渡海し、帰国して出産した。その子が後の応神天皇となる。なんともタイミングのいい話にとれなくもないが…
応神天皇の出生の場所とされているのが、糟屋郡宇美町にある宇美八幡宮。地名の読みにもみられるように、子を「うみ」はたしたことにちなんでいる。
さて、ここからが筑豊に残した神功皇后の足跡。
子を産み都への帰路へと向う神功皇后は、筑豊飯塚へと歩む。帰路において筑豊への第一歩となったのが、「ショウケ越え」。現在の飯塚市と糟屋郡須恵町との境界にあたる。赤ん坊の応神天皇をショウケ(今でいう園芸用の箕)にのせて、この峠を越えたと伝わる。
ちなみに「ショウケ」は、「宗家(そうけ)」が訛ったものと考える人もいる。天皇家の宗家であった応神天皇にちなんで「ショウケ」と名づけられ、転じてそれは今、園芸用品の名称ともなって使われている。ホームセンター等で見かけたら思い出してもらいたい(参考までに「ショウケ」という言い方は西日本中心に聞かれる言い方で、東日本では「手箕(てみ)」とか「箕」といわれる)。
峠を下ったところで、神功皇后は遠征軍を解散した。このことを「大分かれ」と当時は呼んだ。このことにちなんで、今の飯塚市には「大分(だいぶ)」という地名となり今に活きる。ちなみに現在ここには大分八幡宮があり、境内には後の応神天皇となる赤子の産湯の井戸というのがある。
さらに都を目指して東へと歩む神功皇后は、嘉麻市稲築あたりに至り立ち寄った。急なことで何のもてなしも用意していなかった人々は、稲の束を敷いて座敷をつくった。このことが「稲築」の地名の由来とされる。飯塚市の稲築地区にあたる。そしてここにも稲築八幡宮という神社があり、神功皇后が奉られている。
神功皇后が残した数々の逸話はまだ続きます。次回はさらに東へ、都への旅はは続きます。
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