【神話のなかの筑豊③~田川をゆく神功皇后~】

【神話のなかの筑豊③~田川をゆく神功皇后~】
 ショウケ峠~大分~稲築を経て都へと向う神宮皇后は、筑豊を東へとすすむ。
 
 前回に示したいわれのある地以外にも、飯塚では嚢祖八幡宮(宮町)、綱分八幡宮(庄内)などにもいわれを残し、今も人々の信仰をあつめる。
 
 飯塚より東に位置する田川にも、神功皇后の足跡は残る。
 
 
 風治八幡宮(田川市)は、川渡り神幸祭(福岡県指定無形民俗文化財)がおこなわれるところとして著名だ。煌びやかなバレンで飾られたヤマが、十数基彦山川に入水して“がぶる”様子をテレビや新聞ポスター等で見かけた人も多いだろう。毎年5月の田川は、「神幸」、「神幸」と口にしながら祭りへの気運がただならぬムードを醸し出す。
 
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【風治八幡宮(田川市)】
 その風治八幡宮のいわれには、このようなエピソードがある。
 
 神功皇后がこの地にたどり着いたとき、急に風雨が激しくなり大荒れとなった。川を渡れないことに際し神功皇后は、悪天候を祈願により神通力でもってたちまち風雨をおさめた。「風治」とはこの故事にちなんでのことという。
 
 筑豊一ノ宮風治八幡宮の由緒
 ⇒http://fuuji.net/yuisho/
 さらに東へ向う神宮皇后は、香春には行かず赤村へと歩みいれた。皇后は、赤村の東に位置し京都郡との境近くにある、山浦(「やまうら」とよむ)というところで一休みした。その際腰掛けたという石が、山浦大祖神社の鳥居の前にある。その名も「神功皇后御腰掛石」。
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【山浦太祖神社(赤村)】
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【山浦太祖神社の神功皇后御腰掛石(大正年間の紀年銘あり)】
 さらに東に進み赤村とみやこ町犀川との境界あたりで、「先にも山ありや」というセリフを残したとも伝わっている。このことにちなんで、みやこ町犀川には“崎山”という地名(平成筑豊鉄道田川線の崎山駅下車)がある。その反対に、皇后が腰掛けたところを“山浦”と呼ばれるようになった。
 
 
 以上の話しは日本書紀、古事記に記載がないが、長い間言い伝えとして郷土に受け継がれてきたもの。言い伝えは所詮「伝承」として、美化されている部分も否めない。だが、これほど地名と伝承が密接に関係し、「御腰掛石」などの物的証拠を目の当たりにすると、あながち伝承の美化とは信じがたくなる。
 
 さらに伝承と地名というポイント群が、結びつきひとつの物語を形成しているところも真実味に箔がつく。福岡県を中心として、北部九州には神功皇后の逸話が秘められた地は多い。
 
 北部九州で筑豊も例外ではなく、むしろ他地域より多いように思われる。「これはホントでは?」と言ってもおかしくない神話だが、それは古代史の謎解きにも似たおもしろさに満ちている。

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