九州最古の鉄道トンネル ここだけの話 ~石坂トンネル秘話~

Blog 筑豊見聞録

近年、明治から戦前にかけての産業遺産がにわかに脚光を浴びております。日本の近代化に寄与したこれらは、現代社会の基礎をなした近代化遺産とも呼ばれ、これまで以上の保護と将来の活用が提唱されております。


筑豊地域はかつて鉱工業が盛んで、特に日本でも有数の石炭産出地域として広く知られておりました。この地域にはまだ当時の面影を残しているものがいくつかあります。田川市の二本煙突や竪坑櫓などがこれにあたります。飯塚市の目尾炭坑遺跡や直方市の筑豊石炭鉱業組合会議所(現直方市石炭記念館)なども含め、

炭坑から産出される石炭は、川ひらたとともに、近代化の象徴である鉄道によって迅速に輸送されました。

その昔「田川線」もしくは「行橋伊田線」などと称された路線はまさしく石炭輸送のためのものでした。その歴史の面影は、ところどころに残っています。知られざる秘話やその特徴などを少し詳しくお話したします。ここでは国の登録文化財となっている赤村の石坂トンネルについてみてみましょう。

九州最古の鉄道トンネル

現在の田川伊田駅から行橋までの区間に鉄道が開業したのは明治28(1895)年。それは、筑豊地方や京築地方の有力者によって結成された豊州鉄道株式会社という地元企業によるものでした。

現在の平成筑豊鉄道田川線の沿線には、開業当時からの土木構造物に恵まれています。いわゆる近代化産業遺産と呼ばれています。石坂トンネルはその一つで、おまけに現存する九州の鉄道トンネルでは最古であり、かつ現役で活躍中です。

石坂トンネルは、二つの隧道によって構成されます。第1隧道は全長33.2m、第2隧道のそれは74.2mとトンネルとしては決して長大というものではありません。花崗岩を主に用いた切石造とレンガをアーチ状に組み上げた堂々の雄姿は、その当時では最先端の技術でもって造られたものです。

石坂トンネル(第1隧道赤村側)
石坂トンネル(第1隧道みやこ町側)
完成直後の石坂トンネル(第1隧道みやこ町側)

第1隧道の竣工直後の写真をはじめ、現在の石坂トンネルをみて気づく人も多いと思いますが、線路上を走行する列車を考えれば、幅員(トンネルの横幅)がかなり大きいことがわかります。これはどうしてでしょうか。

先ほど地元有力者によって結成された豊州鉄道株式会社は、今で言えば地元の中小企業。つまり、大企業のように潤沢な資金に恵まれているというわけではありませんでした。

開業当時の資金力では、複線として営業するのは困難。しかし、筑豊炭田の増産は近代化の大波にのって、火を見るよりも明らかでした。このため、苦肉の策としてトンネル工事の部分は開業当初から複線化を見越しての設計としたようです。

参考までに、田川線沿線の鉄道橋には、のちに複線化をスムーズに移行させるための工夫が随所にみられます。これはまた別の機会に。

石坂トンネル(第2隧道赤村側)
石坂トンネル(第2隧道みやこ町側)

豊州鉄道の施工に携わった人々

ここではちょっと詳しく、この鉄道の開業に携わった人々についてお話いたします。豊州鉄道株式会社は、発足後全線の設計に野辺地久記(のへじひさのり)を招きます。この人物は工部大学校(現東京大学工学部)を首席卒業した優秀な工学博士でした。米国留学を経て、九州鉄道(現在の鹿児島本線を主な営業路線とする株式会社)や豊州鉄道の技師長を歴任、その後は東京帝国大学教授として教鞭を振るうと記録にはあります。

また、石坂トンネルを含む油須原から香春にかけての工区は、久米民之助を中心とする久米組が落札業者となりました。久米民之助も工部大学校の卒業で工学士、他の工区にも現地の責任者として工部大学校の関係者が工事に携わったとの記録が残ります。つまり、豊州鉄道を開業するにあたり、当時日本の先端技術の粋を尽くしていたと言い換えることができます。政府も筑豊地域の石炭産業に大きな期待を寄せていたあらわれとも言えるでしょう。 

石坂トンネルの落盤事故

門司新報(明治28年7月14日付け)

開業当時のまま残る石坂トンネルは、当時の先端技術の結晶であることが理解して頂けたかと思いますが、開業予定日も間近に迫った明治二十八年七月十二日に不慮の事故が起きます。

それは工事中のトンネルが崩落を起こし、作業中の工夫二十名あまりの命を奪うということです。このことは明治期の新聞『門司新報』にあります。後日の事実確認により死者十四名と報じられましたが、痛ましい事故として大きく紙面を割いて掲載されております。

期待の大きかった鉄道敷設に対しこのような被害が出たことは、当時の人々に大きな影響を与えたことでしょう。完成後石坂トンネルの写真は、第四回内国勧業博覧会に紹介、内外に日本の近代化をアピールするという一役を担っていました。大きな犠牲を代償として石坂トンネルは開通し、百年あまりの間様々な面で利便を与えたと言えます。

コメント

  1. 明日の専門家 より:

    兵庫県姫路市に在住のダイセルイノベーションパーク久保田邦親博士(工学)のCCSCモデルは鉄道のトライボロジーを語る上でも実に興味深い。

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