炭坑王の豪邸 伊藤伝右衛門邸、地域のシンボルとして 

Blog 筑豊見聞録

かつて筑豊には、御三家(⇒https://www.chikuhoroman.com/gosanke)、または五大炭坑王と呼ばれた英傑たちがいた。今回はこのうち五大炭坑王の一人、伊藤伝右衛門が築いた邸宅をご案内したい。そして、この邸宅ゆえに生まれたオリジナルのストーリーを簡単に紹介いたします。

筑豊五大炭坑王 伊藤伝右衛門

まず、伊藤伝右衛門という人物像について迫ってみよう。彼は、幕末期の混乱で世情不安が高まっていた1861(万延元)年、現在の飯塚市幸袋で生まれた。生家は貧しく、家の蚊帳ですら質入れしなければ、生活が立ち行かなかった時もあり、生きるために働き寺子屋にも行けない幼少時代を過ごしたという。

そんな伝右衛門の人生に転機が訪れたのは、石炭を運ぶ川ひらたの船頭をすることから始まった。療養から回復した父とともに炭坑経営に乗り出し、当時の国策も拍車をかけることとなり、一代で莫大な富を引き寄せた。

伊藤伝右衛門邸の全容

邸宅に生まれたドラマ

そんな伝右衛門が自らの生誕の地、飯塚市幸袋に建てた豪邸は、幼少期の極貧時代に味わった富への執着のあらわれなのかもしれない。大正から昭和の戦前期にかけて造られた豪邸は、敷地面積約7570㎡、建物延床面積約1020㎡を誇る。邸内は、宮大工まで動員しダイヤを象った欄間、洋風の応接室、台所や女中たちの部屋など、総部屋数25に及ぶ。邸内から見下ろすように広がる回遊式庭園は国史跡(名勝)としての価値を認められている。

伊藤邸の応接室

北東側の隅だけに造られた二階部分は、あの柳原燁子(「やなぎはらはなこ」のちに白蓮という雅号を名乗る)を娶るときに特別に新調した増築部分で、当時華族を迎え入れるために伝右衛門が贅を尽くしたと言われる。大正天皇のいとこにあたる高貴な人物を嫁として迎え入れるのは、当時の一大ニュースともなり、平民あがりの炭坑王が飛ぶ鳥を落とす勢いであったことがわかる。

邸宅の2階部分
白蓮の間
白蓮の間から見下ろす庭園

炭坑王の邸宅 これからの役割

今では飯塚市の所有となった伊藤伝右衛門邸、市の象徴的な場所として一般公開とともに、各種のイベントで活用されている。来場者数は年間20万人を数え、伝右衛門が生前の頃には想像もしなかったにぎわいがみられる。昔、炭坑王の邸宅、今、地域のシンボルとして見守っているかのような役割を担っている。これからは炭坑なき今の筑豊で、炭坑時代のたくさんのエピソードを伝えるため、半永久的に受け継がれていくだろう。

コメント

  1. […] 例えば、筑豊御三家をテーマとしたドキュメンタリー映像を企画し、伊藤伝右衛門邸や炭坑関係の産業遺産を舞台にロケ地設定してみることなど。 […]

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