「福岡みやげに名菓ひよ子」と書くとやはり、「ひよ子って東京みやげじゃなかった!?」と返ってくることが多い。名菓ひよ子が持つイメージとネームバリューは、やはり東京というのが強いのでしょう。しかし本来名菓ひよ子は、福岡県の飯塚市の生まれ。ひよこ本舗吉野堂が明治30(1897)年創業したことに始まります。ということはどちらの名菓なのでしょう?
知られざる「ひよ子」の歴史
名菓ひよ子は、100年以上前に生まれた。それも現在の福岡県飯塚市で、れっきとした筑豊生まれのスイーツである。ひよこ本舗吉野堂の「吉野」は、近くにある八木山峠の桜並木(ソメイヨシノ)にあやかって名付けたらしい。
そもそも筑豊の地は、炭鉱マンたちの重労働を癒すために甘味物が多く、鍋などの味付けも甘めなものが目立つ。そして、ここ飯塚は江戸時代に長崎街道の沿線にあり、遠賀川最大の宿場町であった。長崎街道からは海外の目新しく珍しいものが京や江戸へと向かい、その中には和菓子にはないカステラやコンペイトウなどの洋菓子も含まれていた。つまり、江戸時代当時飯塚は国際色豊かな町で、異文化交流が盛んなところがあった。また、海外貿易にふれる機会が多く、砂糖の入手が他の地域と比べて容易だったこともあげられる。
炭鉱が華やいでいた頃、飯塚には日本全国はおろか、海外からも多くの人々がそれぞれの思いで集まってきた。それは職を求めて炭鉱あってきたという部分が強かった。いろいろな時代背景が重なり、飯塚をはじめ筑豊では甘いものに目がない人が多かったと考えるのは難くない。このような折、二代目吉野堂店主石坂茂は、それまでの和菓子の代表格、饅頭をもっと愛されるものとしたいという思いで生み出したのが元祖「ひよ子」だった。
丸や四角い形が多かった当時の饅頭、ありきたりな形ではそれまで以上には愛されない。そこで二代目が思いついたのが、丸みの曲線美を活かしたひよこの形。試行錯誤しながら丸みの立体形に仕上げ、世に出たのが大正元(1912)年の冬だった。誕生当初は職人さんがそれぞれに木型を造って成形していたが、次第にニーズの高まりを受け、量産化へと発展する。それでもほぼ100年前から変わることのない製造法ということで、伝統名菓と言ってもいいくらいのものとなっている。
名菓ひよこの東京進出、そして現在
それではなぜ、東京みやげというネームバリューができたのだろうか。
1964年の東京オリンピックにあわせて、東京に出店した1号店がその発端のようだ。発売当時から評判が高かったらしいが、東京進出のための工場建設と有名百貨店や駅構内売店などへの出品も拍車をかけた。
小学館発行の月刊誌「サライ」に掲載された記事には、駅売店として良く知られるキヨスクの全国一位売上店として、東京上野駅があげられた。その店の人気トップ10の堂々第1位はひよ子となった時があった。昭和41(1966)年に㈱東京ひよ子が創業し、工場も関東圏内に建設されることで、飛躍的に知名度があがった。現在は年間製造個数約8500万個、直営店舗を全国に約100か所、そしてひよ子にちなんだ新製品も続々と販売されている。
こうしてみると「福岡生まれ、しかも筑豊生まれの東京育ち」といった言い方が、もっともふさわしいのかもしれない。ひよ子をみやげに持っていくときは、このエピソードをもって、話に華を添えてみるのも乙な計らいとなるでしょう。ぜひ活用してみてください。
コメント