江戸初期、小倉藩に咲いた“幻のワイン”と母子の祈り――細川ガラシャと忠利のドラマ

Blog 筑豊見聞録

江戸時代初期、小倉藩で生まれた“幻のワイン”の物語は、日本ワイン史を大きく塗り替える驚きに満ちています。この記事では、約400年前の国産ワイン醸造の詳細、細川家の歴史的背景、江戸時代初期のワインの味わい、日本最古のワイン記録、そしてキリスト教とワイン文化の深い関係について、分かりやすく解説します。

幻想とロマンに満ちたワイン伝説の幕開け

今から400年ほど前の江戸初期、福岡県北九州市周辺の小倉藩で、日本史上でも極めて早いワイン造りが行われていたことをご存じでしょうか。

その背景には、ただの技術伝播や南蛮文化の受容だけでは語り尽くせない、母と子の深い祈りと絆、そして歴史の荒波に翻弄された家族の物語が秘められていました。


カリスマ的存在、細川ガラシャ――民の心を照らした“光”

細川ガラシャ(本名・明智玉)は、明智光秀の娘として戦国の世に生まれ、細川忠興に嫁ぎます。彼女の人生は、父の謀反「本能寺の変」による幽閉、夫との軋轢、そしてキリスト教への改宗と、数奇な運命に彩られていました1 2 3 5

ガラシャがキリシタンとなったのは、外出もままならぬ監視下の暮らしの中、神の恵みを求めてのことでした。彼女は洗礼名「ガラシャ(Gratia=恩寵)」を得て、内面から輝きを放つようになります。
その信仰心と誇り高き生き様は、やがて藩内の民や家臣たちの心をも照らし、カリスマ的な存在として語り継がれるようになりました1 5

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

「花は散るときを知っているからこそ花として美しい。人間もそうであらなければならない」
― ガラシャ辞世の歌1


母の祈りを受け継いだ忠利――追悼と再生のワイン醸造

ガラシャの信仰は、息子・忠利にも大きな影響を与えました。忠利は幼いころから病弱で、母の深い愛情と祈りに包まれて育ちます3

やがて忠利は小倉藩主となり、母の死後もその信仰心と精神を大切に抱き続けました。

江戸幕府による禁教令のもと、キリスト教のミサに不可欠なワインの入手が困難となると、忠利は家臣・上田太郎右衛門に命じて、藩内でワイン醸造を始めさせます。

このワイン造りは、単なる南蛮趣味や薬用酒の製造ではなく、「母ガラシャの信仰を絶やさぬため」「追悼の祈りを捧げるため」という、忠利の切なる思いが込められていたのです。

細川忠利像(熊本市水前寺公園内)

“幻のワイン”伽羅美酒(がらみしゅ)の誕生

ワイン造りに使われたのは、山ブドウ「ガラミ」。黒大豆の酵母を使い、発酵による本格的なワインが毎年仕込まれました。

忠利は技術の伝承にも心を配り、「万が一に備え、他の者にも製法を伝えよ」と命じています。
こうして小倉藩の“幻のワイン”は、母の信仰と家族の絆を象徴する“祈りの酒”として生まれたのです。

江戸初期の小倉藩とワイン生産

一方、江戸時代初期の小倉藩では、2代藩主・細川忠利が藩内でワイン(葡萄酒)の生産を命じていたことが、近年の史料研究で明らかになっています

1627年(寛永4年)から1630年(寛永7年)にかけて、家臣の上田太郎右衛門に命じ、「がらみ」と呼ばれる山ブドウの一種と黒大豆の酵母を使い、発酵による本格的なワイン(醸造酒)を製造させていました

このワインは、混成酒ではなく、現在のワインと同じくアルコール発酵によるもので、日本で初めて本格的に国産ワインが生産された事例ではないかと考えられています。

製造されたワインは主に藩主の薬用や贈答用として使われました。細川忠利は病弱で、薬用としてワインを好んだとも言われています。

当時ワインはキリスト教の儀式酒としても知られていたため、幕府による禁教令の強化とともに、小倉藩でのワイン生産は数年で姿を消したと考えられています。

その後、細川家は熊本に転封され、変わって小倉藩は小笠原家によって統治されます。しかし、そこに住む人々の心には、ガラシャへの崇拝、キリスト教への帰依は消え失せることなく幕末まで受け継がれていったようです。


現代に響く歴史ロマン――“幻のワイン”と上野焼

小倉藩で生まれた“幻のワイン”は、ただの技術史ではなく、信仰と愛、家族の絆が織りなす歴史ロマンがここに隠されています。

ガラシャの生涯は、オペラやヨーロッパの書籍にもなり、今なお世界中で語り継がれています1。現代にも受け継がれるほど、人々の心に鮮烈な印象を与えるガラシャの姿は、その子である忠利にも大きな影響を与え、ミサを続けるためワイン作りにまで及んだのです。

ワインづくりに上野焼が?

この一方で、小倉藩には藩の御用窯として知られる上野焼があり、藩の基幹産業、そして銘品ともいうべき茶器を生産するため、確たる地位がありました。

がらみ酒を作るための器に利用されたのが上野焼、という可能性は否定できません。これは推測の域でしかないかもしれませんが、藩主の身近に存在していたため想像に固くありません。

この点は後の研究に委ねられるところですが…

ちなみに上野焼を要する福智山周辺から香春岳にかけては、キリシタン関連の遺産が数多く確認されていることも目を引きます。その信仰は、幕末まで絶えることはなかったといいます。

生産の記録

細川家による葡萄酒づくりが行われていた場所の有力なヒントは、熊本大学や地元の歴史調査による古文書の記録にあります。

1627年(寛永4年)から1630年(寛永7年)頃まで、少なくとも4年間にわたって継続的にワインが造られていたことが、近年の熊本大学永青文庫研究センターの史料調査によって明らかになっています。→大学ジャーナル

特に「中津郡大村(現福岡県京都郡みやこ町)」で山葡萄の一種「ガラミ」を原料に、黒大豆を使って葡萄酒が醸造されていたことが明らかになっています。

伽羅美(がらみ)酒

おわりに

もし小倉の地を訪れるなら、城下に息づくこの母と子の祈りの物語に思いを馳せてみてください。
ワインの香りとともに、あなたの心にもきっと、ガラシャと忠利の絆が静かに響いてくることでしょう。

また、城下から離れた山間部、特に田川地域では当時隠れキリシタンと呼ばれた人々が密かに暮らした。→香春町に眠るキリシタン遺跡と信仰の物語

田川の山奥で、金や銅の鉱山(間歩)で、あるいは上野焼の里で身を隠しながら、キリシタンたちはキリストへの信仰とともにワインづくりを絶やさずにいたのかもしれません。

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