香春町に眠るキリシタン遺跡と信仰の物語

Blog 筑豊見聞録

福岡県田川郡香春町。この土地の名を聞いて、すぐにキリシタン(キリスト教信者)の歴史を思い浮かべる人は多くありません。

しかし、香春町には実は数多くのキリシタン遺跡や伝承が残されており、長きにわたり人々が信仰を守り抜いた静かなドラマが織りなされています。

この記事では、香春町に残るキリシタン関連の遺跡や歴史、そしてそこに息づく人々の物語を紐解きます。


香春町におけるキリシタン布教の始まり

香春町にキリシタンが根付いたのは、16世紀末から17世紀初頭にかけてのことです。

この地では、黒田官兵衛孝高(如水)細川興秋中浦ジュリアン神父など、キリスト教布教に深く関わった人物が活躍しました。

特に1599年、黒田官兵衛がセスペデス神父を招き、中津教会や修道院を拠点に精力的な宣教活動が行われました1

1608年から1611年には、天正遣欧少年使節の一人である伊東マンショ神父が小倉教会の副司祭として奉職し、香春にも度々足を運びミサを授けた記録が残ります。

このように、香春町は豊前・豊後・筑前・筑後の各地からキリシタンが集う信仰の拠点となっていたのです1


キリシタン迫害と潜伏

しかし、徳川幕府による禁教令が出されると、香春町のキリシタンたちは厳しい弾圧にさらされます。1611年以降、細川忠興による迫害が強まり、多くの信徒が命を落としました1

それでも信仰は途絶えることなく、香春町では「潜伏キリシタン」として密かに信仰が受け継がれていきます。

特に、細川家の影響下で築かれた「不可思議寺」や延命院教会などが、キリシタンの隠れた拠点となりました2。また、香春町採銅所周辺は山深く、治外法権的な環境があったため、信仰を守るには格好の場所だったといいます2

香春町に残るキリシタン遺跡より

キリシタン遺跡と信仰の証

香春町には、今もなおキリシタンの信仰の証が遺跡として残されています。

封建制という社会にあっては、珍しいどころか信仰に命を賭けていた人々がいた。この事実はやはり特筆すべきことではないでしょうか?

代表的な歴史の遺産をもとに、ご覧の皆さんに理解が深まることとなれば幸いです。

あぎなし地蔵と釘抜き地蔵

延命院教会(香春町大字中津原宮尾)には「あぎなし地蔵」と呼ばれる地蔵尊があります。

この地蔵は胸の前に大きな「釘抜き」を抱えており、これは十字架に磔にされたキリストの釘を抜く道具を象徴しています。

こうした特徴から、あぎなし地蔵は「キリシタン地蔵」とも呼ばれ、信仰の対象とされてきました3

マリア観音像

また、境内には「マリア観音像」と表記された像もあり、膝の上に幼子イエスを抱いた聖母マリアを表現しています。これは仏教の観音像に偽装(カモフラージュ)しながら、キリスト教の信仰を守るための工夫でした3

蛇を踏みつけているキリスト像

香春駅裏手の田川西国東11番札所には、蛇を踏みつけているキリスト像や、右手にキリストを抱く観音(マリア)像が安置されています。

これは、キリシタン信仰が仏教の札所という形で姿を変え、地域に根付いていた証です3


200年続いた潜伏と「像踏み拒否」

香春町のキリシタンたちは、禁教令から約200年もの間、密かに信仰を守り続けました。その証拠となるのが、1829年(文政12)に行われた「宗門改め」における「像踏み拒否」事件です。このとき、2,078人もの人々が踏み絵を拒否し、キリシタンであることを表明しました4 2

この数字は、香春町周辺にいかに多くの隠れキリシタンがいたかを物語っています。彼らは組織的な信徒組織(コンフラリア)を作り、互いに助け合いながら信仰を守り抜いたのです4


信仰のリーダーたちと地域社会

香春町のキリシタン史を語る上で欠かせないのが、地域に根付いたリーダーたちの存在です。細川興秋(不可思議寺の住職)、中浦ジュリアン神父、香春領主の細川孝之らがキリシタン組織を支え、信仰の灯を絶やさぬよう尽力しました4 1

また、信徒たちの献身的な生き方や相互扶助の精神は、地域社会にも大きな影響を与えました。彼らの姿に感化されて新たにキリシタンとなる人も多く、信仰は静かに広がっていったのです4

ではなぜ、禁教令にてキリスト教が禁止されたにも関わらず、香春という地に隠れキリシタンが集まっていたのでしょうか?

1. 細川忠興とガラシャの人となりと小倉藩の宗教的寛容性

小倉藩初代藩主・細川忠興は、妻ガラシャの殉教的な信仰に深く影響を受けていました。ガラシャは明智光秀の娘であり、厳しい状況下でもキリスト教信仰を貫いたことで知られています。

忠興自身もガラシャの死後、キリスト教式の葬儀を行い、藩内でキリスト教を一定期間保護したと伝わります1 2 3。この宗教的寛容さが、小倉藩領内でのキリシタン活動の温床となったことの大きなきっかけだったと考えられます。

2. 山間部・鉱山地帯という地理的条件

香春町は古くから鉱山の町として知られ、山間部であることから幕府の直接的な統制が及びにくい「治外法権的」な性格を持っていました。

徳川家康が発布した「山法(山例五十三ヶ条)」は、鉱山労働者やその周辺の人々に特別な扱いを認め、他地域と比べて自由度が高い空間を形成していました4 5

このため、迫害から逃れたキリシタンたちが山間部に潜伏しやすく、信仰を密かに守り続けることができたと考えられます。

3. キリシタン家臣と地域社会のネットワーク

小倉藩では、藩主がキリシタン家臣を鉱山や山間部の要所に配置し、幕府の厳しい取り締まりから信徒を守る役割を担わせていたと考えられます。

田川郡では、家臣が鉱山キリシタンを保護することで、地域に信仰が根付く土壌が作られました5

そして、藩祖細川忠興は藩内の金・銅などの鉱山開発に積極的でした。このための労働力という側面にも活用できるというメリットが生まれます。放任しているわけではなく、信仰を匿うと同時に一方で統制することにより藩内の振興策と治安の取り締まりにも活用していた。こうした背景があったのではないでしょうか?


現代に息づく香春のキリシタン史

近年、香春町では「香春とキリシタン展」などを通じて、地域に眠るキリシタンの歴史が再び注目を集めています1。郷土史家や研究者による調査も進み、今後さらに多くの事実が明らかになることでしょう。

香春町のキリシタン史は、単なる宗教の物語ではありません。時代の荒波の中で信仰を守り続けた人々の勇気と、地域社会に根付いた助け合いの精神が、現代にも静かに受け継がれているのです。

近年、天草や長崎のキリシタン関連遺産が世界遺産としても登録されました。記憶にある人もいると思いますが、これらに匹敵するような史実が、香春という地に刻まれていたというのは興味深いところです。


おわりに

香春町に残るキリシタン遺跡や伝承は、歴史の表舞台からは見えにくいものの、確かにこの地に生きた人々の信仰と絆の証です。

あぎなし地蔵やマリア観音像、そして「像踏み拒否」に象徴される勇気ある行動は、今も私たちに大切な何かを語りかけています。

もし香春町を訪れる機会があれば、ぜひこれらの遺跡や史跡を巡り、静かに祈りを捧げた人々の物語に思いを馳せてみてください。歴史の陰に隠れた信仰の灯が、きっとあなたの心にも温かな光をともしてくれるはずです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました