セメント線としての誕生
福岡県福智町を中心に、かつて「金見鉄道」と呼ばれる専用貨物線が走っていました。
正式名称は「三井鉱山セメント田川工場専用線」。昭和39年(1964年)、国鉄伊田線金田駅から分岐し、関の山鉱山まで約5kmを結ぶこの路線は、筑豊の新しい時代の象徴として誕生しました1 2。
金見鉄道の主な使命は、関の山鉱山で採掘された石灰石――“白ダイヤ”と呼ばれた貴重な鉱石――を三井鉱山セメント田川工場へ運ぶこと。
ここで生まれたセメントは、北九州の工場群や日本各地の都市開発を支えました。かつて「黒ダイヤ」と呼ばれた石炭が筑豊の繁栄を築いたのに対し、金見鉄道は“白ダイヤ”の時代を象徴する存在となったのです12。

最盛期の運輸と産業の鼓動

金見鉄道は、DE10ディーゼル機関車が1日2往復のセメント列車を牽引し、田川工場から金田駅へ、さらにはJR線を経由して門司港・田野浦の出荷センターまで石灰石やセメントを運びました1 2。
朝と午後に出荷されるセメント列車は、工場の生産力と地域の産業活力を象徴する存在。沿線には築堤やトンネル、橋梁が連なり、田園地帯と山間部を駆け抜けるその姿は、まさに筑豊の“産業動脈”でした。
この物流ネットワークは、三井鉱山グループの多角化戦略の一端でもありました。エネルギー革命で石炭需要が減少する中、グループはセメント製造に活路を見出し、地域経済の新たな柱を築こうとしたのです2。

平成筑豊鉄道と“地域の足”として
時代が進み、1990年代に入ると国鉄の分割民営化に伴い、筑豊の鉄道網も大きな転換期を迎えます。1989年、旧国鉄田川線・伊田線・糸田線とともに、金見鉄道の貨物支線も「平成筑豊鉄道」へと引き継がれました345。この第三セクター鉄道は「ローカル線の優等生」と称され、地域の旅客輸送とともに、金見鉄道のセメント輸送も担い続けました。
「へいちく」の愛称で親しまれた平成筑豊鉄道は、地元自治体と住民の支援を受けながら、新駅設置やサービス向上、観光列車の運行など独自の経営努力を重ねてきました345。金見鉄道の貨物列車は、平成筑豊鉄道の“ドル箱”として経営を支える重要な存在でもありました1。

廃線、そして遺産へ

しかし、セメント需要の減少や産業構造の変化、親会社の経営再編などを背景に、2004年3月、金見鉄道はその役割を終えます。最後のセメント列車が走った後、専用線は廃止され、工場も撤去されました12。
それでも、金見鉄道の面影は今も福智町の風景に残っています。中元寺川橋梁や築堤、トンネルなどの産業遺構は、地域の歴史を静かに語り続けています。廃線跡の一部は遊歩道や散策路として整備され、鉄道ファンや地元の人々が往時の面影をたどる“産業遺産ウォーク”の舞台となっています1。

“白ダイヤ”と筑豊の未来

金見鉄道の歩みは、筑豊が“黒ダイヤ”から“白ダイヤ”の時代へと歩んだ産業変遷の物語そのものです。石炭から石灰石へ、エネルギーと建設資材という異なる資源が、地域の暮らしと日本の発展を支えました。
そして、平成筑豊鉄道という三セク鉄道の挑戦は、地域の足と産業輸送を守り抜いた“優等生”の物語として、今も人々の記憶に刻まれています。廃線となった今も、金見鉄道の遺構は筑豊の誇りとロマンを伝え、未来へと静かに語りかけているのです。



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