ここでは、鞍手町の新延大塚古墳から見た地域の歴史と伝説にクローズアップします。古墳の特徴や出土品、鞍橋君の英雄伝説を通じて、地域の知られざる歴史と日本古代の神話世界に迫りましょう。町を中心に筑豊地方の魅力と歴史の奥深さを再発見するための旅にあなたをご招待します。
古墳の概要と特徴
新延大塚古墳(にのぶおおつかこふん)は、福岡県鞍手郡鞍手町新延に位置する、直径約30m・高さ約7mの大型円墳です。築造は6世紀後半とされ、遠賀川流域では最大級の横穴式石室を持つことで知られています1 2 3。

石室の構造
石室は全長約12mの複室構造(羨道・前室・玄室)で、南側に開口しています。
玄室(奥の部屋)は高さ約4m、奥壁・側壁には幅3m・高さ2mもの花崗岩の巨石が使用され、天井はドーム状に積み上げられています。
これらの石材は、古墳から約5km離れた六ケ岳から運ばれたことが判明しています。

出土遺物
馬具(鞍・鐙・杏葉)、鉄鏃、須恵器などが出土しており、当時の被葬者が相当な権力を持った豪族であったことを示しています2 4 5。
文化財指定
1972年に福岡県指定史跡となっています2。


日本古代史と伝承
新延大塚古墳は、単なる王墓ではなく、地域の歴史や日本古代史と深い関わりを持つ伝承が残されています。
古代史という謎に満ちた時代を、生き生きと蘇らせる伝承とはどんなものなのでしょうか?
鞍橋君(くらじのきみ)伝説
6世紀後半、この地の豪族「鞍橋君(くらじのきみ)」は、欽明天皇15年(554年)、百済救援のため朝鮮半島に渡り、新羅との戦いに参加したと伝えられています。
戦の最中、鞍橋君は敵の包囲を突破し、百済の王子・余昌(のちの威徳王)を救出。その際、弓で敵騎兵の鞍橋(馬具のアーチ部分)を射抜いたほどの武勇を示したとされます3 6。
この武功により「鞍橋」という名を賜り、これが「くらて」という地名の由来になったとも言われています7 3。

物部氏や日本武尊との関係
鞍手町周辺は九州における物部氏の本拠地ともされ、また日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が熊襲征伐の帰途、この地に鎧を納めたという伝承も残ります。それは、鎧塚古墳(同じく福岡県指定文化財)に関係とゆかりがあるとされます。
新延の剣神社や鎧塚古墳は、こうした伝説と結びつき、地域の神話的な歴史を今に伝えています7 8 9。

6世紀後半という時代の中で
新延大塚古墳は、6世紀後半に築造されたと考えられています。
この時期の日本列島は、古墳時代後期にあたり、前方後円墳の築造が終息し、代わって円墳や横穴式石室を持つ古墳が各地で造られるようになりました。遠賀川流域でも同様の傾向が見られ、新延大塚古墳はその代表的な大型円墳です。
この背景には、中央集権的なヤマト政権の支配体制の変化や、地方豪族の自立性の高まりが影響しています。6世紀後半は、ヤマト政権が朝鮮半島情勢に深く関与していた時期でもありました。朝鮮半島では、百済・新羅・高句麗の三国が激しく争い、倭(日本)も百済と同盟して新羅・高句麗と対立していました。
特に、554年(欽明天皇15年)に倭国が百済救援のために軍を派遣した記録があり、これが鞍橋君伝説など地域の伝承にも結びついています。このような対外関係の緊張や、鉄資源・馬などの軍事力強化の必要性が、豪族の権威を象徴する大型古墳の築造や副葬品の充実につながったと考えられます。
また、遠賀川流域は宗像地域や博多湾沿岸と鉄器生産・流通で結びつき、朝鮮半島との交易や外交の拠点でもありました。新延大塚古墳の被葬者も、こうした国際的な動きの中で、軍事・外交両面で重要な役割を果たした地方豪族であったことが推察されます。

地域の歴史のワンシーン
このように、新延大塚古墳の築造年代は、日本国内の政権構造の変化と朝鮮半島との緊張した対外情勢が密接に絡み合う時代背景のもとに位置づけられます。
今から約1,400年前、遠賀川流域を治めていた豪族の一族が、六ケ岳から巨石を運び、広大な石室を持つ古墳を築きました。
彼らは朝鮮半島の戦乱にも関わり、国際的な交流や戦いの最前線に立っていました。百済救援の帰路、英雄鞍橋君がこの地に凱旋し、村人たちがその武勇と帰還を称えた――そんな歴史の一場面が、いまも新延大塚古墳の静かな森に息づいているのです。
**新延大塚古墳**は、単なる遺跡ではなく、古代日本の国際交流、豪族の力、そして伝説の英雄譚が交錯する、鞍手町の誇る歴史遺産です。


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