ボタ山という炭坑の遺産を、文化遺産という資産として

Blog 筑豊見聞録
三井田川六坑ボタ山


“ボタ山”と聞いて「何!?」と言う若い世代も多くなった。筑豊に住む私たちは、それぞれに“ボタ山”をイメージするだろう。

そこであらためて“ボタ山”という定義を調べてみた。

“ボタ山”は、日本独自のものではなく、イギリスやフランスなどにも発達し、この技術を導入して生まれた。筑豊では、明治大正期には丘陵の合間の谷に廃棄された炭坑のボタが、戦前期に埋め立てられた丘陵の上に廃棄されるようになった。このときに西洋からの技術導入がなされ、円錐形の“ボタ山”が出現した。

最盛期の筑豊炭田では約300を越える“ボタ山”が勃興したが、今ではその姿も旧住友忠隈炭坑ボタ山(飯塚市)と三井田川六坑ボタ山(田川市)のみとなっている。

かつて日本でも石炭鉱業が各地に展開したため、相当数のボタ山が残っているものとみられるため調べてみた。その結果、北海道の赤平市と夕張市、そして福岡県の先の二つと旧志免鉱業所の「西原硬山」の5つが確認されるのみとなっていようである。その他まだ未調査のものもあるのかもしれないが、今のところ日本には“ボタ山”という炭坑遺産は先ほどの5つしかないのかもしれない。

炭坑の役割が終わり、エネルギーの需給が大きく変化した現代、ボタ山の数は非常に少なくなった。このように考えれば、筑豊のボタ山は文化遺産としての希少価値の高いものとなる。最近文化庁の調査官が筑豊に視察へ訪れた際は、事実関係の取りまとめの上、重要文化財への答申をしてみてはという声もあった。

世界遺産に含まれている八幡製鉄所の操業を、エネルギー面で支えていたつながりを考えれば、あながち無理な話ではない。地域の歴史の象徴としてもう一度見直してみてはどうだろうか?日本の歴史の1ページを刻んだ炭坑のモニュメントなのだから。

見方を変えて撮影するとその魅力もまたひときわなものになることもある。以下の画像はその一例。

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