田川生まれの鶯が、東京で炭坑節を全国区にした──赤坂小梅という橋

赤坂小梅(1906〜1992)炭坑節を全国へ広めた歌手 筑豊の歴史・文化

赤坂小梅──田川生まれの鶯が炭坑節を全国区にした

1948年秋、東京の複数のレコード会社が同時に「炭坑節」をリリースした。4人の歌手、4社の競作。この瞬間こそが、炭坑節が一地方の民謡から「国民的な盆踊り唄」へと転じた歴史的分岐点だった。

4人のうち唯一、筑豊・田川の出身者がいた。赤坂小梅である。

この記事でわかること

– 赤坂小梅とはどのような人物か、田川から東京へ至る足跡

– 1948年の競作盤が炭坑節の歴史において持つ意味

– 彼女が「座敷唄の節回し」を守ろうとした理由と、その結末


赤坂小梅とは?炭坑節を全国に届けた田川生まれの歌手

赤坂小梅(1906〜1992)は福岡県田川郡川崎町生まれの芸者・歌手で、1948年に炭坑節を全国的著名人として初めてレコードに吹き込んだ人物であり、昭和期の新民謡の確立と普及に大きく貢献した。

本名・向山コウメ。9人兄姉の末娘として炭鉱の町に生まれた彼女は、16歳で小倉の置屋「稲本」に入り「梅若」として芸者になった。「小倉に梅若あり」と評されるほどの唄の実力は、やがて時代を動かすことになる。

田川郡という筑豊の炭鉱地帯に生まれ、炭鉱の唄とともに育ったことが、のちの彼女の音楽的アイデンティティの核となった。


料亭での「偶然」が人生を変えた

1929年(昭和4年)、田川を訪れた作曲家・中山晋平と藤井清水が料亭で小梅の歌声を聴き、才能を見出した。この出会いが彼女を全国的な歌手へと押し上げる最初の一歩となった。

昭和初期の料亭で芸者の歌声に聞き入る作曲家たちのシーン
1929年(昭和4年)、田川の料亭で梅若の歌声を聴く中山晋平と藤井清水(イメージ)

藤井の推薦で日本ビクターに録音し、「小倉旭券梅若」の名義で新民謡16曲を収録した。その後1931年に上京。赤坂の料亭「若林」に移り、「赤坂小梅」と改名した。

1933年、コロムビアレコードに専属入社。古賀政男作曲「ほんとにそうなら」でデビューするや大ヒットし、歌手・赤坂小梅の名は全国に轟いた。田川郡の置屋の「梅若」が、日本の芸能界の中心で輝くまでになったのだ。

筑豊百景プロジェクトは2020年の設立以来、田川郡川崎町や炭坑節ゆかりの地を現地取材してきた。赤坂小梅の生まれ育った炭鉱の町の風景は今もその面影を留めており、彼女がなぜ炭坑節の伝統的な節回しにこだわったかが、現地に立つとよく理解できる。

筑豊という土地の出身であることへの誇りと、中央の芸能界での成功。その両方を持つ存在として、小梅は炭坑節との関係において決定的な役割を果たすことになる。


1948年、競作の夜──座敷唄か、盆踊り節か

昭和23年11月、赤坂小梅はコロムビアから「正調炭鑛節」を発売した。4社競作の中で小梅だけが筑豊の花柳界に伝わる「座敷唄の節回し」を守ったが、全国に広まったのは他社の「盆踊り節バージョン」だった。

昭和23年の録音スタジオでマイクの前に立つ女性歌手
昭和23年、戦後初の競作レコード録音スタジオ(イメージ)

戦後復興の国策として「石炭増産」が叫ばれていた時代、炭鉱を象徴するこの唄はラジオで連日流れた。各社が競って炭坑節を録音したのは、時代の必然だった。

歌手レコード会社節回し
赤坂小梅コロムビア座敷唄(伝統的節回し)
音丸キング盆踊り節(現在主流)
美ち奴テイチク盆踊り節
日本橋きみ榮ポリドール盆踊り節

小梅だけが選んだ「座敷唄の節回し」は、筑豊の花柳界で受け継がれてきた本来の形だった。しかしより踊りやすく大衆的な「盆踊り節」が時代に選ばれた。小梅は後のステレオ再録音でも盆踊り節に合わせ直さざるを得なかった。

彼女が守ろうとした「本来の節回し」は、歴史のわずかな隙間に残るだけとなった。


筑豊と中央をつないだ生きた橋

赤坂小梅の歴史的意義は炭坑節一曲に留まらない。田川郡に生まれ、小倉で磨かれ、東京・赤坂で名声を得た彼女は、筑豊の音楽文化を中央の芸能界に接続した「生きた橋」だった。

筑豊と東京をつないだ赤坂小梅の足跡──炭鉱の町から赤坂へ(引用元:MOVIE WALKER PRESS

九州大学の研究(大島久雄氏)でも、小梅は昭和期の「新民謡」──伝統民謡を現代的に再編成したジャンル──の確立と普及への貢献者として学術的に評価されている(参考:九州大学総合研究博物館研究報告 Vol.15-16)。

1992年、赤坂小梅は没した。享年85。その声が届けた「月が出た出た」は今も夏の夜に鳴り響く。彼女が座敷唄の節回しを守ろうとした記憶とともに。


まとめ:田川から赤坂へ、赤坂から日本へ

赤坂小梅という人物を知ることは、炭坑節がいかに多くの人の手と声を経て全国へ届いたかを知ることだ。彼女は単なる「歌手」ではなく、筑豊という土地が生んだ文化の運び手だった。炭坑節発祥の地・田川から、なぜ東京の盆踊りにあの唄が流れるのか。その答えの一つが、赤坂小梅という名前の中にある。

→ 関連記事:炭坑節のルーツ「伊田場打選炭唄」とは

→ 関連記事:小野芳香──炭坑節を記録した田川の教師


Q. 赤坂小梅はどこの出身ですか?

福岡県田川郡川崎町の生まれです。1906年に9人兄姉の末娘として生まれ、16歳で小倉の置屋に入り芸者になりました。炭鉱で栄えた筑豊の出身であることが、炭坑節との深い関わりの背景にあります。

Q. 赤坂小梅が炭坑節をレコード化した年はいつですか?

1948年(昭和23年)11月に、コロムビアレコードから「正調炭鑛節」として発売しました。キング・テイチク・ポリドールとの4社競作となり、各社ともヒットしました。この競作が炭坑節の全国的普及の決定的なきっかけとなっています。

Q. 赤坂小梅が録音した炭坑節と現在の炭坑節は同じですか?

節回しが異なります。小梅は筑豊の花柳界に伝わる「座敷唄の節回し」で録音しました。一方、現在全国で踊られている炭坑節は、同じ競作の他社(キング・テイチク等)が採用した「盆踊り節の節回し」です。小梅も後のステレオ再録音では盆踊り節に合わせ直しています。

Q. 赤坂小梅と中山晋平の関係は?

1929年、作曲家・中山晋平と藤井清水が田川の料亭で小梅(当時「梅若」)の歌声を聴き、その才能を見出しました。藤井の推薦により日本ビクターで録音する機会を得たのが、彼女の全国的なキャリアの出発点となっています。

Q. 赤坂小梅の歌声は現在どこで聴けますか?

NHKのアーカイブや国立国会図書館のデジタルコレクションで一部音源が公開されているほか、CDが市販されています。また田川市石炭・歴史博物館では炭坑節の歴史に関する展示と合わせて音源を聴ける機会があります。


この記事を書いた人

松浦幸市(筑豊百景プロジェクト・経営コンサルタント)

中学高校社会科教職員免許・学芸員資格保有。福岡県田川郡福智町を拠点に、2020年より筑豊地方を中心に現地取材を重ね、訪問した事業所・文化施設は延べ100件以上。一次情報にもとづく筑豊の歴史・文化を専門的な知見で発信し続けている。


【情報源】

– 赤坂小梅 – Wikipedia: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%9D%82%E5%B0%8F%E6%A2%85

– 炭坑節発祥の地(小野芳香・赤坂小梅): https://adeac.jp/tagawa-lib/texthtml/d300010/mp100010-300010/ht001460

– 赤坂小梅と筑豊炭坑文化(九州大学): https://www.museum.kyushu-u.ac.jp/publications/bulletin/015_016/015_016-5.pdf

– 炭坑節 – Wikipedia: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%AD%E5%9D%91%E7%AF%80

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