この記事でわかること
- 第一章:闇の中から滲み出た唄
- 第二章:採集者と、消えた本音
- 第三章・第四章:川崎の末っ子が唄う
- 第五章・第六章:1948年の奇跡と、埋もれた故郷
夏の夜、どこかの広場で炭坑節が流れている。
「月が出た出た、月が出た──」
浴衣の裾をひるがえしながら、人々が輪になって踊る。誰もが知っているあのメロディ。誰もが口ずさめるあのリズム。しかしその唄が生まれた場所を、今夜踊る人々の何人が知っているだろうか。
舞台は福岡県・田川。百年以上前、石炭と粉塵と女性たちの嗚咽が混じり合う、ある選炭場だった。
第一章:闇の中から滲み出た唄

明治の筑豊炭田に、「アトヤマ」と呼ばれた女性たちがいた。
夫(サキヤマ)が地下の坑道で石炭を掘り出す傍らで、彼女たちは地上の選炭場に立ち続けた。コンベアから流れてくる石の塊を手で叩き、割り、石炭とボタ(廃石)に選り分ける「場打ち」という作業だ。朝から夜まで、粉塵と酷暑の中で、同じ動作を何千回と繰り返す。
夫と一緒でなければ働くことも許されなかった。仕事が終われば炊事と育児が待っていた。「炭坑太郎」と蔑まれた一家は縁談を断られ、山本作兵衛の記録画にはこの時代、選炭場での女性への暴力が、日常のこととして描かれている。
それでも彼女たちは唄った。
唄はもともと、あけすけな本音が詰まったものだった。過酷な労働、理不尽な支配、それでも消せない恋心——記録にも名前にも残れなかった女性たちが、唯一本音を吐き出せた場所が、あの「場打ち」のリズムに乗せた唄だった。
石炭を叩くたびに、ボタを選るたびに、唄は地面に染み込んでいった。これが「伊田場打選炭唄」の始まりである。
第二章:採集者と、消えた本音

1910年(明治43年)、三井田川炭鉱・伊田坑の近くに建つ小学校に、小野芳香という男性教師がいた。田川郡伊田村出身。1892年生まれ、1958年没。
田川地方の民謡と童謡を調査・収集していた小野は、ある日、選炭場の女性たちが口ずさむ唄に耳を止めた。粗削りで、生々しく、しかし確かな力を持つ唄。それが伊田場打選炭唄だった。
小野はこの唄を採集し、三味線の伴奏に合わせて整形した。「三弦選炭節」と名付けられたそれは、花柳界の座敷唄として田川から小倉へと旅立っていく。
救済か、それとも変質か。
女性たちの生の本音は、「洗練」という名のもとに整えられた。しかしもし小野が採集しなければ、あの唄は選炭場の粉塵とともに、誰にも知られることなく消えていたかもしれない。光を当てる行為は、同時に影を作る。その交差点に、この男は立っていた。
1956年、小野は田川市から表彰される。採集から実に46年後のことだった。
第三章・第四章:川崎の末っ子が唄う

1906年、田川郡川崎町に一人の女の子が生まれた。九人兄弟の末っ子。生まれてわずか10日で母を亡くし、姉の手で育てられた。
向山コウメ、後の赤坂小梅である。
16歳のとき、彼女は周囲の強い反対を押し切り、自ら芸者の道を選んだ。小倉の旭検番で「梅若」を名乗り、筑豊の唄を身体に叩き込んだ。生後10日で失った母の歌声を、彼女は誰かの喉から探し続けていたのかもしれない。
1929年、転機が訪れる。福岡の料亭で唄う梅若の声を、作曲家・中山晋平と藤井清水が聴いた。「この娘は本物だ」——二人はそう確信し、レコードデビューが決まった。1931年、上京。赤坂の置屋「若葉西」に身を寄せ、「赤坂小梅」と名を改めた。
翌1933年、古賀政男の曲でコロムビアレコードからデビュー。しかし人気が絶頂に達しかけた1938年、夫・三味線奏者の菊屋松が急逝する。32歳の小梅は、ひとりになった。悲しみを唄に変えることは、世界中の芸人が自然と行ってきた営みだ。
第五章・第六章:1948年の奇跡と、埋もれた故郷

1948年(昭和23年)11月、日本コロムビア・日本ビクターなど4社が同時に「炭坑節」をリリースした。赤坂小梅の「正調炭鑛節」。その声には、川崎で育った子の筑豊の血が流れていた。
戦後の焼け野原から立ち上がろうとする人々の盆踊りに、炭坑節は火がついたように広まった。翌年、翌々年と重版が続き、夏の定番として日本中の広場に根づいていく。
しかしこの頃、一つの「誤解」が静かに広がっていた。テレビのクイズ番組が「炭坑節の発祥は三池炭鉱」と紹介したのだ。誤伝は瞬く間に全国へ。唄が生まれた伊田の地は、知らぬ間に「本家」の座を奪われていた。
女性たちが選炭場で唄い始めてから、すでに半世紀が過ぎていた。
1962年、ようやく正式な調査と認定が行われ、「伊田が本家、三池は分家」と決着した。名前も残せなかった選炭婦たちの故郷が、「発祥の地」と認められるまでに、60年という歳月が必要だった。
エピローグ:今年の夏も、月が出る

今夜もどこかで炭坑節が流れている。
「月が出た出た、月が出た──」
あの唄の向こうに、名前を残せなかった女性たちがいる。場打ちの手を真っ黒にしながら、粉塵の中で声を上げた人たちがいる。小野芳香に採集されて、初めて「記録」に昇格した唄がある。川崎で生まれ、10日で母を失い、それでも唄い続けた赤坂小梅がいる。
炭坑節はひとつの唄ではない。何十年もかけて積み重なった、無数の人生の地層だ。
今夏、盆踊りであのメロディを耳にしたとき、少しだけ立ち止まってみてほしい。月明かりの向こうに、煙突の影が見えるはずだから。
よくある質問(FAQ)
炭坑節はどこで生まれましたか?
福岡県田川市(旧・伊田村)の三井田川炭鉱・伊田坑が発祥の地です。1962年に正式に認定されています。「三池炭坑起源説」はテレビのクイズ番組が広めた誤伝です。
伊田場打選炭唄とは何ですか?
明治時代、三井田川炭鉱の選炭場で働く女性労働者(選炭婦)が口ずさんでいた仕事唄で、現在の炭坑節の直接の原型です。「場打ち」とは石炭とボタを手で選り分ける動作のことです。
小野芳香はどんな人物ですか?
田川郡伊田村出身の男性教師(1892〜1958)。1910年に伊田場打選炭唄を採集・整形し「三弦選炭節」として記録した人物です。この採集が炭坑節の全国普及への第一歩となりました。1956年に田川市から表彰されています。
赤坂小梅はどんな人物ですか?
田川郡川崎町出身の民謡歌手(1906〜1992)。生後10日で母を亡くし、16歳で芸者の道へ。1948年に「正調炭鑛節」をレコード化し、戦後の盆踊りブームとともに炭坑節を全国に広めました。1974年に紫綬褒章を受章しています。
田川市で炭坑節に関するイベントはありますか?
毎年秋に「TAGAWAコールマイン・フェスティバル 炭坑節まつり」が開催されています。炭坑節発祥の地・田川市のシンボルである三井田川炭鉱の二本煙突(国指定史跡)も見学できます。
この記事を書いた人
松浦幸市(筑豊百景プロジェクト・経営コンサルタント)
中学高校社会科教職員免許・学芸員資格保有。福岡県田川郡福智町を拠点に、2020年より筑豊地方の歴史・文化の情報発信と経営支援に従事。


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